Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

プロテスタントと一口に言うけれど

私は20年ほどプロテスタント教会に通っていた。
私がクリスチャンになったきっかけは、職場で出会ったクリスチャンの人となりだった。私が憤ったりふてくされる状況においても、彼女は柔和かつ真っ直ぐで、私も平安を得たいと思ったものだった。

彼女はクリスチャン三代目で、色々な教会を経験していたが、当時は聖霊派の教会に通っていた。バンドがエネルギッシュな演奏をする、若い人の多い教会だった。
彼女は一緒に教会に行った私に、ここは昔ながらのスタイルではないけれど、同じキリスト教だよ、と説明してくれた。

仕事の任期が終わり、東京の郊外の実家に戻った私は彼女に、同じような聖霊派の教会があれば教えてくれるよう頼んだ。
実は、「いかにも」キリスト教らしい敬虔そうな「型」のある教会だと、私のような者ははみ出してしまうのでは、と気後れしていたのだ。
直接は知らないけれど似たようなスタイルならここ、と教えてもらったのが、その教会だった。

私はそこで洗礼を受けた。
以来、仕事でほとんど行かない時期があったり、遠方に住んではまた戻ることの繰り返しになった。
別の地域に住んでいたときは、聖公会やホーリネス系の教会に通ったこともあった。

つい最近まで、教会のちがいは「スタイル」と「特色」だけだと思っていた。
教団や教派、教会によって礼拝のスタイルが違う。
また、力を入れる活動が社会福祉だったり伝道だったりするが、それは分業のようなもので、それぞれ得意分野があるんだろうと考えていた。

しかしそんなに単純じゃない、と知ったのは、つい最近のことだ。

私は差別やエリート主義が嫌いである。しかしそういったものを許容するどころか、積極的に実践するような人も教会の中にいた。私は、個人の価値観の違いはどこにでもある、と自分に言い聞かせ、接触しないように努めていた。

しかしここ数年、価値観の圧倒的な差異をまざまざと感じることが増えた。とくにこの数年の政治状況から、関連する話題が出るたびに、あちこちで私とは正反対の価値観を耳にした。教会に別の教会から集団で移ってきた人達が加わり役員と化したことも、教会内の空気の変化の理由だろう。

教会設立時からいるご家族の二代目で私と同年代の人と話していたところ、プロテスタントといっても、得意分野の違い以上の差異があるのだ、と知った。
彼女はたまたま福祉の仕事で、プロテスタント最古の教会と付き合いがある。その話を聞いていたら、活動のタイプだけじゃなく、活動を支える組織的な基礎や知識がしっかりしていることに気づいた。
ちょっと考えれば当たり前のことなのだが、その教団は、社会福祉活動を戦前から続けているので、社会や制度の変化を経て、社会と共に歩んできている。社会の一員という市民的意識が「当たり前」であっても不思議はない。

一方私が通ってきた聖霊派教会では、そういう話はタブーに近い。平和とか言ったとたんに、「何よあなた九条じゃないでしょうね」などと言われるし、将来の役員ともてはやされる若い男性たちも現役員も、政治なんて興味ねえよ、俺たちに関係ないっしょ、と言う。

教会が血気盛んな社会運動系であったなら、それはそれで、馴染まなくて悩む人がいそうではあるが、
この聖霊派教会の無関心さは、中立というより、政治的な無関心なのではないか、と思い当たった。つまり、ノンポリが最善という価値観。見るな、考えるな。
伝道だけすれば、すべてOK。

そして、そういえば戦前からの教会がメガチャーチ作ろうなどと言うのは聞いたことがないな、と気づき、ふと考えた。

「戦後」が分岐点なのか?と。

そこから調べ始めると、教団や教派の違いが、出てくるわ、出てくるわ…。神学論争もあり、一気に考えて答えを出すのは無理。

今まで何で気づかなかったんだろう。