感動と信仰は同じものではない
プロテスタントの諸派の歴史と教義の違いなどを知れば知るほど、頭がこんがらがってきて、一体自分の信じているものは何だったんだろう、と非常に不安になっていた。
私は感受性が人一倍強いとよく言われるのだが、自分が信じているものの核が把握できないということは、認識する世界の成立自体が危うい、そんな感覚だった。
そして、逡巡しつつ、先日とある古いタイプの教会の礼拝に出た。
そこの礼拝メッセージで、私は「感動」してしまった。
激しく心が揺さぶられた。
また、主の祈りを唱和しつつ、信仰において一番大切なことは何か、と自分に問うた。
人によってはこういう体験を「リバイバル」と言うのだろう。
そこで気づいたことがある。
皮肉なことではあるが、こうして礼拝メッセージに「感動」しても、それがすなわち「信仰」ではないということだ。
前に行ってた教会の牧師は、とくにカリスマ性があるわけでもなかったが、私はメッセージに「感動」することがたびたびあった。
しかし、今、自分の混乱状態は、なあなあにしてきた自分の成長不足を表している。
メッセージと感動体験の繰り返しで、私自身が実生活の中で信仰を立て上げてこなかったのだ。
感動は信仰に喝を入れたり、励みになるかもしれない。しかし感動は感情である。一時的な気持ちの高揚で、非日常的な経験だ。
神は私の感情次第で存在が決まるわけではない。むしろ、私が辛く、苦しく、祈れない、信じられない時にも、神は神であり、存在する。
この日の礼拝メッセージは、聴いて良かった。内容も私の励みになった。
しかし気持ちの高揚と信仰は切り離そう。感動のエピソードしかない信仰ではなく、実の伴った中身のある信仰を育てて行こう、と意を新たにした。