Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

結婚に例えられる愛も結構だが、友情はどこに行った?


私が断続的に通い続けてきた、聖霊派の教会の状況について。

(ほかの所も記憶の限り似たりよったりだったが)


教会の牧師のメッセージや信徒の話のなかで、信じる者とイエス•キリストとの関係が、結婚に例えられることがある。


そういう比喩が使われることや、結婚にケチをつけるわけではない。

しかし説教や信徒の会話でそればかりが続くと、「結婚」と愛の実践をイコールで結んでいるかのような教会内世論みたいのが出来てくる。


そこに「子に対する親の愛」がちょこっと加わることもある。


別にアガペーかフィレオか、なんて議論をしたいわけじゃない。

そういった用語を使う以前に、愛というものの概念自体が問われておらず、自明のものとされているようだ、と気づいた。

つまり、どっからか学習してきた「愛=異性間の愛」というやつが、聖書に当てはめられて理解されているみたいだった。


こうやってはっきりと言ってしまうと、ようやく、「ちょっと待った、それは神の愛とイコールじゃないよ」と危機感を共有してくれる人もいる。

しかし、言われない限りは、どうも「自明」のまま話が進んで行くことが多かった。


たとえば新しく来た人が「クリスチャンになって永遠の愛を獲得」などと言っている場合、話を聞いていると、神様の愛を受け、次は「人間の永遠の愛、すなわち結婚」ということらしい。


異性愛の永遠を保証する象徴として教会が捉えられているのか?


人々の中に、異性愛と親子の愛以外の愛の概念はあるのか?


私はテレビや映画はあまり見ず、もっぱら活字ばかりなのだが、どこもかもテーマは恋愛ばかり、と嘆く人に会った。ということは、テレビや映画が流布する愛の概念は、恋愛に偏っているのか?


だとしたら、愛の概念が薄っぺら過ぎる。

恋愛や異性愛が悪いとは言わない。

結婚したい人はすればいい。

しかし、善いサマリア人の例は、恋愛至上主義で言ったら、「親切」程度に格下げされてしまいそうだ。


聖書のなかで、イエスが弟子たちを友と呼ぶ箇所がある。

この友がもつ愛を理解するには、恋愛至上主義では足りない。


しかし、異性愛すなわち夫婦の愛、そして家族の愛、という例ばかりが出される。偏っている。


もちろん、夫婦が、家族が一緒に生活して行く中で、愛の実践はものすごく難しいだろうし、練られてゆくと思う。

しかし、そこだけを愛の実践の場として捉えるのは、いかがなものか。


前に行ってた教会の大半は既婚者、それも主婦が多かったので(結婚後、妻だけ信徒になったケースが多数)、そういう文脈もあるんだろう。


なんでこんなこと書いてるのかというと、私の中に、状況に対する疑問はずっとあった。そんなとき、「イエスは本当の友達」というラジオメッセージを聞いて、やっぱりな!と思ったからなのだ。


このラジオメッセージ自体は、けっこう冗長で、初心者向けかな?と思うのだが、テーマとして友が出てくるメッセージに当たったのは、この20年間で2回目くらい。つまり非常に希少。

しかもこの冗長なメッセージ、友とはどんなものかをゆっくり丁寧に語っている。恋愛至上主義者は、このくらい丁寧に分かりやすく説明しないと、友とは何かを理解できないかもな。


今日は殴り書き。

早く寝ようっと。