Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

不寛容ってこういうことかな 1



ミーちゃんはーちゃんという方の

「一キリスト者からのメッセージ」

というブログを最近拝見している。


その中で、自分を省みる機会になったのが、この記事。


福音派と聖書  米国の場合  その1」

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=469


大学生が教師から聖書の話を聞いて、「そんな話は聞いたことがない」、おまけに「それは聖書的ではない」と反応する、という話。元記事はTim Gombisという方のブログ。

http://timgombis.com/2013/03/20/evangelicals-the-bible/


はじめは「新たな学びに心を閉ざしてるんだな、若者のごうまんさにありがちだ」なんて思ったのだが、読み進めるうちに、なんだか自分と学生を重ね合わせてしまった。


私はこのところ、本当に、本当に、キリスト者としての信仰に大切なことって何だろう、と考えることが多い。

教派、歴史、概念、教理、解釈、… 調べれば調べるほど、自分の腑に落ちる感覚から遠ざかって行く。

でも毎日聖書はかならず読み、祈る。道しるべの基本だと思うから。


ひょっとして、前述の学生たちは、今の私みたいに、精神的に余裕がないのではなかろうか。


読み始めに裁いちゃったけど、自分になぞらえて考えた。


教師の話を聞いて、必死で作ってきた小さな安心できる庭の葉に虫がついてたり、根が病気だったりすることに気付いて、

こりゃ一大事だ、掘り返して土を消毒?それだとあれも抜かなきゃ、これを移さなきゃ、と頭が先走るだろう。


私個人は、「知らない」ことは世の中にたくさんあると思うし、反応も遅いので、とりあえず、そうかーと話を聞き、後からひとり脳内ディスカッションがはじまるわけだが、自分が作り上げた安心できる小さな庭の一部がほころびたら、ほかの部分も崩れるかも、と恐れる。


「そんな話は聞いたことがない」、「聖書的じゃない」と言うのは、防衛的な反応がすぐに出るか、私みたいに後からニュルニュル出てくるかの違いなだけだな。


それでも聖書を豊かに理解したい、と徐々に受け入れて考え、必要なことは祈れば、自分が変わって行くかもしれない。

その勇気を持ちたい。