日本で「信仰」を「選択する」こと
ふたつ前の投稿に関連して、常日頃から疑問に思っていることを。
人にイエスを伝えるときにも、参考になるかも。
宗教に限らず、自分が行動を決定する主体であり、選択する主体である、という意識って、どこまで一般的なんだろうか、と。
主体意識がある・ない のどちらがいいのか、という話ではなく、私が個人的に経験している範囲ではどんな状態なのかを考えてみた。
私が以前、海外にいたときに、日本人と知り合い、私が教会に行く時、彼女も来るようになった。
教会のαコースに出たり、一緒に集まったりと、留学生が英国人と交わる、数少ない設定だったと思う(生活や仕事を共有してるならともかく普通の人は留学生には特に興味はないと思う)。
私も私なりに、自分の信仰について彼女に伝えたりしていた。
彼女は帰国後も教会に通いたい、と連絡をくれた。その後、地元で教会に通い、その様子などをよく知らせてくれた。
ある日、困っているとの電話があった。アメリカ人宣教師が、信じるのかどうなのか、信じないならなぜ教会に来るのか、と業を煮やして迫ってきた、責められた、という。
私は、信じられないなら洗礼を受けないほうがいい、と答えた。
ただ、前から言っているように、
完全に理解して、完全に信じるまで洗礼は受けられない、と思わないほうがいい、
この三位一体の神を自分の神として進んで行きたい、と思ったら、洗礼をうければいいと思う、
と付け加えた。
その後彼女は洗礼を受け、アメリカ人の人と知り合い、家庭を持つようになったとのこと。
クリスチャンの家族を持ち、状況的には、クリスチャンであることに違和感を持たなくて済むだろう。
しかし、彼女が洗礼を受けるのに躊躇していた理由は、私の母が言うことと似ていたので、ずっとひっかかっている。
人はこういう風にものごとを考えるのか、と。
前々回の投稿に書いた、「信じてないけど洗礼を受けた」人が言っていた、「だって(わざわざ信じることを選ぶのは)不自然でしょ」という発言ともだぶっている。
それは「自然」、「不自然」という言葉だ。
クリスチャンになった私の友人も私の母も、常日頃から、何かにつけ要望を尋ねると「分からない」と言う。
私は我が強いのか、あそこに行ったらこれ食べる!とか、これが納得行かないから知りたい!といった些細なことから、意思決定の手順はこうでなくちゃ、などの要望やらこだわりやらがあるのだが、彼女も私の母も、些細な選択に対しても、ほとんど要望というものが出てこない。
母の場合、状況がまず先にあって、「自然と」選択は決まるから、意識的に選択することはないのだという。じゃあ突発的に何かが起きて選択しなくちゃならない時、どんな理由でその行動を選んでいるのかと言うと、「自然と」出てくる反応なのだそうだ。
貧しい時代を知っているがゆえに、「欲しがりません」が身についている、というわけでもないらしい。
自分が何を欲しているか、という内面へのアクセスがない、と言う。
逆に、私からすると、母が言うところの「自然」な反応というものが、常識が身についているようで、手動入力しなくても出てくるようで、羨ましいくらいだ。
だから手動入力してはじきだしている私が「不自然」に見えるのだろう。
なんだか、この友人や母の話を聞いていると、手塚治虫のマンガを思い出すんだよな。
宇宙が先ず在り、人間はその中のちっぽけな要素でしかない。悠久のうごめきの中の一滴に過ぎない、みたいな。
自我とか自己について言うと、心理学が引き合いに出されるだろうが、私はその方面には明るくない。
ただ、社会学方面から切り込むなら、西欧近代の個人と対比される「社会ありきのperson」は日本だけじゃなく世界的にも優勢だろう。
西欧の個人は社会的な概念だから個人として認められているのであって、そうでない個人の概念などないと言うこともできる。
そうすると、自己による選択ということ自体が怪しくなってくる。
しかし「頭で考えて手動入力」式の人(=私)は、そんなに不自然ですかね。
どうすれば自然になるんですかね。