不寛容ってこういうことかな 2
二つ前の投稿で、神様なんて信じていない、と洗礼を受けた人に言われて、ショックを受けたこと。
私自身も焦りがあって、数日間、ほかの人は私が信じていることを信じていないのではないか、とパニックになった。
しかし、人の信仰が本当かどうか、私はどうやって知るのだろう。
私は言語情報に非常に頼る。場の空気が読めない。
だから、書かれたことと発話されたことが、理解の大半を占める。
これは器質的なものなのだそうだ。
先週、「来週は○○をお持ち下さい」みたいに教会の週報に書いてあったから、今日は○○を持って行ったら、驚かれた。
小学校のときから、こういうことが続いている。
ほかの人はいつの間にか「やっぱりナシね」とか「できればでいいから」のサインを受け取っているようだ(空気を読んでいる)が、私には書かれたことと発話しか分からないので、当日肩すかしを食う。
世の中には私には拾えない情報がたくさん溢れているのだ。
あと、ことばを私みたいに扱わず、適当に口に出したり書いたりする人もいるのだ。
そうやって考えると、先日の「神様なんて信じてない」発言は、その人の信仰について100%示す情報じゃないんだよな、と自分に言い聞かせた。
言ったことがすべて、みたいに思うのは不寛容だと気付いた。
自分の傾向から割り引いて考えて、あまり深刻ならないようにしようと思う。