Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

別の教会で気づいたこと: 実は福音書を軽く見ていた?

 

 

自分の今までの信仰って何なんだろな、と思いながら、前の教会には行かず、近所の教会に行っている。

 

考えさせられることがたくさんある。

 

どの教会も完璧ではないし、日曜の礼拝以外にも本や集会やセミナーやいろんな形で自分なりに理解を深めてゆくものなのだろうが、

私の場合は日曜の礼拝メッセージが大きな比重を占めていたので、今更ながら自分の理解の偏りに向き合っている。

 

というのは前置き。

気づいたことを書き出してみる。

 

1  四福音書が「過去の当時の記録」にとどまっていた

 

前に行っていた聖霊派の教会では、クリスチャン=使徒(弟子)という位置づけだったみたいだ。

 

イエスが救いのわざを完了したあとの時代で、使徒として為すべきことは宣教命令に従うこと、という理解で、伝道の働きが強調されていた。その他の社会生活については、福音書以外の書簡を参照して、家族を大切にしましょう、愛をもちましょう、といった話は出るのだが、基本的に伝道や祈り以外は「問題外」みたいな扱いだった。

あなたはそのままで愛されている、行いでは人は救われない、と付け足しのように言うけれど、祈りや伝道って、行いだからな。今後のあなたの行いを期待します、ということだな。

 

人として地に生きたイエスについての理解を深めることはあまりなかった。

イエスは今も私たちと共におられるとか、友となられた、とさらっと触れることはあるのだが、そこについての説明がほとんど無く、礼拝メッセージはその後の使徒の働きや黙示に重点を置いていた気がする。

 

それに対し、今行っている近所の教会は、コミュニティセンター化の側面が強いような気もする。二代目以降の信徒がけっこう多いせいか。社会生活を送る人の人生の一部としての信仰がキリスト教、みたいな見方をしているようだ。教会は祈る場所、信仰の集まり、という意識が弱いとも言えるし、社会生活なしでは誰も生きられないという現実を踏まえているようにも見える。まだ数回しか行ってないから、印象だけど。

 

つまり、私が前に通っていた聖霊派の教会は、意識はしてないだろうけど、使徒という役割を追求する目的特化型だった。理屈としては「クリスチャンになったら伝道と祈りが人生」な「はず」なので、人生の一部分としてではなく、この部分を人生の全体にしてしまえ、という論法になる。だからワーシップソングで、私のすべてを捧げます、とか歌うわけだ。

 

それに対し、私が最近行っている古めの教会は、人の人生の一部分として信仰があり、その部分がどんなものかは、洗礼を受けるという最低限の基準をクリアしてればOKなので、人の存在そのものが目的という共同体という意味では理にかなっている。しかし信仰は社会における存在の絶対条件ではないので、信仰の部分が社会的な人格全体からすると薄まってしまってもしょうがないという状態なんだろう。

しかしイエスと「共に、今」生きる、という視点は、こちらのほうが強い気がする。それは使徒としての目に見える「わざ」に頼らないにもかかわらず、クリスチャンとして人生を送るからだろうか。「生きる」こと自体が、人生の一部分である信仰がジワジワ人のうちに他者のあいだに広がる希望でもあるからだろうか。

 

 

2  「選ばれた民」へと異邦人を変換する装置としてのイエス?

 

前に通っていた聖霊派の教会では、福音書が「かくかくしかじか、こういうことがありました。で、あなたは信じますか、信じませんか」というフィルターになっていた。

信じますと答えると、はい、それではあなたは弟子となりました、以後新約聖書の書簡以降を参照、となり、書簡で書かれたことは律法のように、守るべき規則として互いを評価する際に使われる。

また、信じますと答えたら、そのことによって「選ばれた民」へと変えられるため、一気に旧約のユダヤ人に分類され、旧約が「直接」自分たちの神との物語に変わってしまう。

 

私が思うに、旧約のはなしはユダヤ人と神との関係や、イエスが来られて贖いが成し遂げられたことを説明するものだけれど、私たちがユダヤ人になったわけじゃあないと思うんですが。

 

こうした偏りに気づいたのは、やはり、福音書が限定的に参照されていたと気付いたからだ。

 

最近行っている近所の教会では、たまたまかもしれないが、イエスと共に、地上で「他者と共に」生きることそれ自体にフォーカスしているように思える。

私たちは人間で、罪人である。イエスによる贖いにより、神との和解を得たが、過ちをおかし続ける。それなのにイエスは私と共にいて友となって下さる。

そのことが繰り返し礼拝で語られている。

 

これを、現在の自分の歩みに当てはめて、

地に足をつけて、他者と共に歩みたいという自分の社会観は、あながち間違いではなかった、

と気づかされた、

 

どうも前の教会ではこの点について、信じたわれわれは「すでに」選ばれた民となったので他者に「優越」する、真実を知っているがゆえに、哀れで穢れた「世の人々」に伝道するのが愛というものだ、という発展のさせ方を取っている人が目についた。

 

神であるのに人として来られたイエス、罪人の友となられたイエス、という視点が、スッポリ抜け落ちている。

神が愛される世という視点も抜け落ちていて、世は敵対すべき対象になってしまっているのではないだろうか。

 

私はイエスの救いを受けたとはいえ、イエスのように愛のまなざしで人や世を見ているだろうか?

旧約と新約聖書を律法がわりにして教会にとじこもるのがクリスチャンだと勘違いしていなかっただろうか?

 

成長はこれからだが、今までちゃんと考えずに来てしまったことの一つだ。