Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「クリスチャンの○○」が好まれる理由を考えてみた その2

「ワレワレの知恵」対「この世の知恵」という対立を、「クリスチャンの○○」対「ノンクリスチャンの○○」という表現に置き換えてみると、

「クリスチャンの○○」>「ノンクリスチャンの○○」という優先度の差が見えてくる。

というわけで、その理由を考えてみた。

前回はその一つ目の理由として、「クリスチャン」=「霊的に正しく教育的」という指標 として機能しているのではないだろうかと考えてみた。

 

今日はその二つ目。

いつものように、自分の個人的な例から考えをズラズラ並べていく、毒舌な文章である。

 

② 「クリスチャンの○○」のほうが優れている: 中身を無視してクリスチャンという肩書きで評価する

 

これは、①の論法と併せて考えると、なんとなく理由が想像できる。

クリスチャンは神と共におり、そうでない人と比べ霊的に一段上なのだ、その一段上の人がすることは、何をするにしても一段上なのだ、クリスチャンの絵画のほうがノンクリスチャンの絵画よりも霊的に正しく教育的なだけではなく、その人は神とともに歩んでいるため、その人の能力はノンクリスチャンよりも霊的で優れているのだ、ゆえにクリスチャンの○○のほうがノンクリスチャンの○○より優れているのだ、という理屈で進む人は結構いるんじゃないだろうか。

 

でもこの場合、途中で主語が入れ替わっているんだよな。

神を知っている人→神のゆえに優れた能力のある人 に替わっている。

そして神に与えられた才能を使って○○を行っている、ということになっている。

地味なことに関しては、あまりこういう「神からの賜物を発揮」とか言う話は聞かない。どちらかというと、芸術やスポーツなど、一般的に「才能」が問われ、目にみえやすい分野で、こういう話になりやすい。

つまり一種の、クリスチャンなら成功する・繁栄するという言説なのだと思う。

 

…ではクリスチャンの絵画は常に正しい霊感に満たされ、優れた作品となっており、観る者に霊感を与え祝福するのか、というと、

そういう保証はないと思いますよ(キリッ)。

そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるだろう。

 

クリスチャンならばそのしごとに「霊的な作用が現れるはず」という勘違いが起きるのは、

・ クリスチャンという「人種」の行動や経験を通じて、神の作用が何らかの形で現れ、可視化すると思われている。それゆえ観察が可能なものについては、「神のはたらきが見えるんじゃないか」と期待されてしまう(期待する主体はクリスチャンであることがほとんどである。つまり自分の期待の成就を他人に願っている。これが信仰という名でよばれる)。

・ 比較対象が「ノンクリスチャン」になっているため、表現力や研鑽の度合いなどを論じる以前に、「クリスチャンだから(何でもいいんだ)」になってしまっている 。

 

この二点によって勘違いされているのだろう。

 

さらに、神を知っていれば素晴らしい能力や才能が与えられて、素晴らしいものがつくれる、という劇的なシナリオ。願えば(一瞬にして才能が)与えられるはずという、極端な思考。 

この場合、「一瞬にして」というのが重要みたいだ。なぜなら、人の努力や積み重ねは評価されないからだ。その人特有の性質とか、長期的視野で見るようなことには、人の努力と肉の思いが混じる可能性が高いし、神の介在が見えづらいがゆえに、評価されない。

 

しかし「一瞬にして」才能や能力が与えられ、燃えるように私はキャンバスに向かったのです、みたいなドラマチックで奇跡の匂いの強い話だと、霊的!すばらしい!ということで、そうして出来上がった作品は素晴らしい、神様の働きだ、という話になるのであった。

 

しごとに限らず、クリスチャンになった経緯や礼拝など、いたるところに、ドラマチック至上主義、軌跡や感動の可視化バンザイみたいなノリがある。

この根底には一部、アメリカ式の知性への反発と似たものがあるように思う。根本的に人の能力は平等で、平信徒も洗礼を受けたら即伝道要員!語って教えるのなんて誰にでもできる!学歴なんて敵だ!みたいな空気は、私が前に通ってた教会も普通にあった。私もエリート主義は嫌いだが、根本的に人がみな能力的に平等という前提に固執し、神学を否定しつつも学歴を権威のよりどころとするアメリカの反知性主義は、特殊な時代の特殊な場所の事例だし、ひんまがっていると思う。「普遍」のモデルとしては不適切。しかし戦後の福音派聖霊派はモロ、この志向に影響されているのだろうなあ。 

それでもアメリカの場合、能力は評価されるだろうからまだいい。日本など下手をすると出る杭は打たれるので、反知性的傾向と、出る杭を打つ傾向が重なった場合、本当に悲惨である。

 

誤解されないよう言っておくが、私は学歴偏重もエリート主義も幼児英才教育も人種主義も嫌いだ。しかし、神様が造られた人間は、統一仕様の大量生産品ではない。人それぞれ個性がある。異なる経験を経て、ほかの人には分からないような悩みや苦しみをもち、それらからの解放を経験することもあるだろう。

大量生産志向のクリスチャンたちは人を機械のように思うらしく、「クリスチャンになった→神の働きを人に顕した(神々しい光景)→人が救われる」という図式を想定している。神々しい光景とは、見えやすく、分かりやすいセッティングで、感動やドラマをともなうというものである。分かりにくく思索的であってはいけない。なぜならそれは大衆ウケしないからである(牧師夫妻から本当にそういわれたことがある)。どうも、分かりやすいことが「善」で、分かりづらいことが「悪」みたいに誤解されていると思う。それって、「俺にわかるようにしろ、でないと認めない」みたいな話だよね?つまり「俺様が理解できることが重要」であり、理解できない俺様は悪くない、ということだな。

 

私は、分かりづらいものの中にも、善いものがあると思う。それらを否定して、クリスチャンの○○だから価値がある、ノンクリスチャンの○○には価値がない、と言う人は、実のところ、いったい何を見ているんだろう。何をそこから学び、受け取り、栄養にしているんだろう。その絵との対話や思索があるのか?

 

大学での研究も、木工職人も、介護も、経営者も、みな積み重ねの上に今がある。

研究とか経営とか言ったとたんに「高慢の罪」とか言い出す人も教会にはいる(世の中でもいる)。

しかしそれって、結局人を肩書きで見てるんだよね。その人が何を見てきて、何を経験し、どうやって今に至るかを知ろうとはしていないんだよね。

人には積み重ねというものがあり、それは貴重だと私は思う。

そういうものをすっとばして、人は皆平等であるがゆえに積み重ねや専門性に価値はない、価値は唯一「神を信じるクリスチャンであること」のみにある、という論理は、ほんとうによく耳にする。

 

だから人を知る努力をせず、ただ「神を信じろ」と不特定多数の人に伝道することだけが良しとされるんだろうな。

私はそれを、とても貧しい態度だと思う。

神様は頭ごなしに「信じろ」と強制する方ではない。

イエス・キリストは神であられるのに人間としてこの地に来て、人間が経験する最悪とは何かを、身をもって体験されている。その方が人の友となられた。それは頭ごなしの顔の見えない関係ではない。イエスなら何とおっしゃるだろうか。