Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

小規模な一世代目の教会での経験から近代との関係を考える(まえがき)

 

キリスト教会の教職者ならびに信徒はポストモダンを意識してるのかなー、近代の「ぼやけ」をどう払拭すればいいのかなー、と以前書いた。

ミーちゃんはーちゃん様が「なんちゃってモダン、なんちゃってポストモダンと日本の教会」と題する記事をお書きで、その3で重要な注意を喚起していらっしゃる。

 

なんちゃってモダン、なんちゃってポストモダンと日本の教会(3)最終回 | 一キリスト者からのメッセージ

合理性を万能とし、無理やりに合理性の枠に押し込めようとする近代の性質。教会生活については、ポストモダンを多元的何でもありの世界のように捉え、かえって「自分の思うキリスト教一色で塗りつぶされないと気が済まないというモダン時代のキリスト教」という、それこそモダンの特徴をもってポストモダンを生きる状況になってしまうのはまずい、とのご指摘だと私は理解している。

モダンの残滓との戦いはまだまだ続くであろう(ハァ~…)と仰りつつも、モダンもポストモダンも人間が社会を見る視点であって、神ご自身はその枠組みで捉えられるような方ではないという重要なご指摘もあった。それでもしかし我々は「…時代にふさわしい神学を形成し、神学をしなければならない…」とお書きであり、私はこのことを、知的営為をもって神との関係を求めることへの肯定と励ましとして受け止めた。

正直なところ、以前私がいた環境では神学を毛嫌いする人ばかりで、神学どころか、キリスト教関連の話題を文字にすることすら忌避していた(!)ため、このところ、カルチャーショックに近い体験が続いている。神学って文字と勉学の別世界みたいに思っていたけど、神学から学ぶものがあって、それで自分のキリスト者としての歩みが豊かになるなら良いのじゃないかと思うようになった。また、ミーちゃんはーちゃん様のブログや、そこからリンクの貼られたブログなどを拝見して、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』(一般書に近いのだろうけど)を皮切りに、神学とはラテン語による研究の蓄積よりもっと幅広いのだと知った次第。

こんなことすら知らないなんて、とびっくりする方もおられると思う。しかし、わざわざあえて書くのは、私と同じように自分に制限をかけているクリスチャンがいかもしれないし、少なくともそういう状況にいる人たちが現存するからである。もちろん、合う合わないという問題もあるだろう。どのようにキリスト者としての自分を成長させて行くかも、人それぞれだろう。

 

また

プレモダンとモダンと教会と新幹線(1) | 一キリスト者からのメッセージ

では、日本とヨーロッパの鉄道の違いから、キリスト教会の集団組織の統率の特徴をうまい具合に説明なさっている。日本の場合、エンジンによる動力を鉄道の編成に分散して持たせ安定した高速を実現しているが、ヨーロッパだと大出力の少数のエンジン搭載車両で走らせるとのこと。キリスト教会にもこのような特徴の違いが認められるのではないかというご指摘である。これも組織論的に重要課題なので、今後あれこれ考える参考にさせていただこうと思う。

 

◇ 私がなぜ近代とポストモダンに引っかかっているのか

 

さて、私自身は神学とは関わりのないまま現在に至るのだが、3回に渡るミーちゃんはーちゃん様の「なんちゃってモダン、なんちゃってポストモダンと日本の教会」を読ませていただいたうえで、再度ブログの下書きをタイプしては読み直しの繰り返しをしたら、「なぜ私はこんなに近代とポストモダンに引っかかっているのか?」という疑問が出てきた。

 

私はキリストを自分の救い主として信じる一信徒であり、定まった教派に現在属しておらず、「教会さがし」中(たぶん)である。

それまで通っていた教会で、大規模で派手なモデルを目指した目標に納得できず、かといって自分が描くビジョンがあるわけでもなく、自分は堅実なものが欲しいと考えて離れた。でも以前いた教会の描く未来像を他人事として笑えないというか、元々同じ文脈を自分も共有していたのだよなあ、と思う。

これからどうしよう、と自分と向き合うと、これまでの自分のクリスチャン性(という語で表せるものであればだが)は、大きく近代に依拠していたのだと気付いた。それは自分自身が育ってきた地域特性とも深く関係しており、前に通っていた教会と、その中にいた自分は、時代限定的なその地域社会環境をモロに表していると思う次第である。

 

前置きがすでに長い。長すぎる。

しかしまだまだ長くなりそうだ。なのにテザリングで頑張っているから、ブログでの投稿にすでに20分以上かかっているので、あとは次回にまわすことにしよう。

 

つづく