Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

小規模な一代目の教会での経験から近代との関係を考える(3)

 

このシリーズではまず、なぜ私が近代とポストモダンに引っかかっているのかを、まえがきとして書いたあと、(1)では戦後の近代化における文化の扱い、(2)では郊外マイホーム一世代目の教会の特徴を、戦後ぶ厚くなった中流層の出現の文脈で理解する試みをした。私がずっと通っていた教会の教会員は、戦後の生活の

「近代化」=「西欧(アメリカ)化≒キリスト教化」

という意味の文脈に位置するキリスト教であったわけだが、近代がここから脱落したらどうなるのだろう、という疑問を持ったのである。

 

ちなみに、前回(2)の私の記事を、ミーちゃんはーちゃん様が取り上げて下さっている。

「銀座、郊外、そしてあこがれの都市計画」

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=923

 

それを拝見し、まさに団地って、新たに核家族が「文化的」という名の衛生的で効率的な生活空間に住み、大量のホワイトカラーを供給すべく計画された住宅だから、絶好の例だなあ、と思った。

そういえば思い出した。私の事例に出てくる教会の地域も、鉄道がまずあり、団地ができてから、鉄道会社がその近辺の分譲を扱うという順を経ていたのだった。

ミーちゃんはーちゃん様、いつも楽しいお話を有難うございます!

 

本日(3)では、教会が位置するポストモダン時代の社会状況(望もうと望まないとにかかわらず)において、私のような信徒が何を心して進めるのかを、信仰以外の外堀から考えてみたい。

 

◇ 社会起業家ふう、でもやっぱり「デキるビジネスマン」がモデル

 

  前回のさいごのほうで、市場原理主義の中に神を位置付けるような不遜な真似をしていないか?と経済の旗を掲げた計算合理主義に対する危機感を表した。でもまあ、合理性については、計算合理以外にもいろいろあるので、合理性が問われるのは市場経済特有の話ではないのだが、ビジネスマン的なハウツー本や一般書を通じて、効率という価値は、形を変え品を変え、日常の諸所の場面に浸透している。

  私が前に通っていた教会では、そういうタイプの本の「クリスチャン版」がよく参照されていた。「あなたの人生の成功法を教えます」*みたいな話のクリスチャン版。あと、「デキるビジネスマンっぽいスタイル」でノウハウや「説き明かし」を語る礼拝や説教をするのは以前からよく見たが、近年の若手の場合は、視覚的には若手社会起業家っぽいスタイルを意識しているのか、iPadMacBookとシンプルでさらりとしているがカチッとはしていない服装が定番みたいである(ちなみに戦後一代目クリスチャンの場合はマクドナルドだったが、その子どもたちの世代はスターバックスが「ライフスタイル」に重要みたいである)。

*例としては、「神はあなたに特別な人生を用意しておられるので、それを見いだしましょう」とか、「神にはあなたに対する計画がある」といったような題名で語られる説教がある。そしてその内容は「賜物を知る」とか「神に従う」とか「明け渡す」といったようなもので、神に服従し信仰を強めれば、自分に与えられた神の「特別な」計画や、「特別」な能力が明らかにされるという内容が、手を変え品を変え、聖書のいろいろな箇所を参照して延々と語られる。つまり一種の「自分探し」と「自己実現」装置となっている。

 

  それらに共通するのは、結局実業の世界が先にあり、後追いでクリスチャン版を作っているのだなということである。近年の「企業家」から「起業家」への変化は、いろいろ示唆的だと思う。社会福祉の民営化という新自由主義の波を反映して、福祉でありビジネスであるという、相容れない論理を抱えながら、「社会サービス」という名が福祉にとってかわり、自治体が民間に「委託」する形で行われることは日常茶飯事になった。福祉従業者も霞を食って生きているわけではないので、営利目的でなくとも採算が取れないと困るという点は認識される必要があるが、「ビジネス」と強調されることによって、ほかの産業と同様に考えられてしまうことは恐ろしい。サービスの対象は、コピー機やレジャー客ではなく、サポートを必要とする人間である。人間の扱いにビジネスノウハウが入り込んだうえ、「ビジネスノウハウ」がスタイリッシュに語られ賞賛されているところに、私はいやな匂いを感じ取る。

  たしか日本では神戸の震災を受けて、それまでの法人格が見直され、NPO法ができたのではなかっただろうか。それまで民間の援助団体などはNGOとして活動しており、国際援助の世界ではノンガバメントというのはガバメントに匹敵する決議権をもつほどの政治的アクターである。国連決議権をもつNGOの場合は、政府代表と並んで国連で決議権をもつのであるが(国内のNGOの人でも、このことを知らないという人は結構いる)、NPOはそういうことはなく、営利であるか無いか、公共のサービス提供を行うかが要である。ほかにも一般社団法人など別の法人格もあるが、いずれも公共の施策へと反映させることを想定されているわけではなく、アドボカシーなどを行うかどうかは、その団体によるとしかいえない。つまり市民社会的な役割が認識されているかどうかすら、けっこうあやしいのである。

  長くなったが、私が何を言いたいかというと、前回の戦後の経済成長期と同じく、現代でも、相変わらず広義の政治性については「見ざる・言わざる・聞かざる」が貫かれている。経済的な行為は推奨されても、市民社会性は否定される状況は綿々と続いており、市場経済による支配に対して無力なままである。そうした社会的文脈にある教会は、いかなる社会像を描けるのだろうか。

 

◇ 近代的個人から、目的-手段の監査機能を内面化した「客観的自己」へ?

 

…と話がそれたが、私は近代が崩壊して前近代に戻るというのでなく、新自由主義下で個人観も市場も特殊な形を強化していると感じている。前に紹介しそこなった春日直樹さんの『遅れの思考』

 

 http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4130130250/ref=mp_s_a_1_1?qid=1447587337&sr=1-1&pi=SY200_QL40&keywords=遅れの思考&dpPl=1&dpID=41nLQwxXUgL&ref=plSrch

 

がそういったことを書いておられ、その中でAudit Culture(監査文化)というものが取り上げられている。近代的個人という概念からの内容の変化を見てみると、目的を達成したかどうか常にチェックする、自己規律を(社会から)課せられた個人、そして自己責任に帰せられ、説明責任をもつ個人への変容が特徴だ。規範を内面化して「客観的に」自己規律を行うよう社会から要請される自己であり、自己が自分の目的と手段のチェックを発動するという。

で、ここからは私の理解と応用だが、現代の息苦しさの正体はこれか、となんとなくわかる。要するに、社会学のいろいろな人が論じるように、近代の個人の場合は、社会から切り離され、個人が計算合理的な行為主体であるよう、社会が要請していた(西欧の個人主義というのは、社会が個人をそう定義しているから個人主義なのであって、そういう意味ではどっちにしろ人間観というのは社会的なものである)。とはいえ、その計算合理性に倣わないこともできる。しかし監査文化の縛りが恐ろしいのは、そうした近代的個人の前置きを下敷きにして、「客観的な自己」になるよう個人に対して要請する点だ。個人はこの「客観的自己」(私の造語だが)への階段を上るべく、自分の外―それは「客観的」と「信じられている」科学や似非科学などであって、対面的な関係にある集団ではない―にある基準を常に参照して自己チェックすることで「「客観的」になろうと努力している自分」を遂行する。そしてこの自己チェックを繰り返す性質を内面化し、下位目標の達成に失敗すると、それを「客観的に」説明することを要求される。 

一見、「近代的個人」とそんなに変わらないように見えるが、監査文化の客観的自己は行動の選択の余地を自分の外部にのみ見いだす点が大きく違う。個人のプライバシーや選択もない(情報開示要求)。人生が途切れない目的‐手段の連鎖だけで埋まる。説明できない目的や、説明できない手段はあってはならないし、カウントされない。そしてそれが「自分探し」として行われるのである。そこで信じられていることは、人生の目的を知って、そのための手段を遂行し自己実現することこそが最上だといって人々に圧力をかける。

上記の教会の説教にしても、就活ノウハウの本にしても、「ご縁(キリスト教では言わないか)があって来ました」では済まされない。しかし人の人生って、そんなに機械的に管理しコントロールするものなのだろうか?

 

◇ 前近代への再帰とは異なるポストモダン

 

近代的個人からのこうした変化を「社会の復権」ととらえ、「(近代以前の)社会的個人への再帰」や「集団との調和」に見えるかもしれないが、「前近代的」と言われていた社会」とは違う。近代以前や前近代といわれた時代の東アジア以外の地域のモノグラフなど読むと、個人と地域共同体との紐帯や親族関係はまちまちだが、帰属する中間集団への忠誠心とか集団規範の縛りが日本の家父長制(家族だけでなく職場でも)に比べてずっと緩いことに驚く。その中の個人は集団への帰属意識はもつし、規範も共有しているが、最低限の成員資格をクリアしていれば(成員資格を厳しくするとコミュニティにはならないので。しかしこれやそこから派生した縛りにひっかかると「伝統的コミュニティは息苦しい」ということになるわけだが)、あとは個々の多様性というのは当たり前に見られているかんじがする。(日本の近代初期の人の逸話を読むと、私だったら人目を気にしてこれは言えないな、やれないな、なんてことを平気でやってる人とか、けっこうな変人っぽい人もいるのだが、今そういう人はいるだろうか。)しかし監査文化は、多様性を許容するかのように見せかけるものの、自己の内面へと踏み込んで、目的を持つよう要求する。また「客観性」にもとづく自己規律と自己チェックを要求する。監査文化において個人の多様性は、個人の外部にある「客観的な」レシピに沿う範囲においてのみ認められるのだろう、と想像する。大量生産大量消費の時代とはちがい、レシピは壮大な物語を提供するのではなく、複数の小さな物語(自分の目的とその達成)を選択肢として我々の前に差し出す。それらはトッピングやオプションも提供し、「あなたの意に沿っている」と言い、あたかも「あなた自身がこれを望み選んだ」かのように装うが、実はすでに定められたルールの中で組み合わせを選択できるようになっているだけなのである。そこには「嫌なものは嫌だ」とか「好きじゃない」といった反応は認められない。なぜなら規範を客観的で正しいものとして装備することが求められるからだ。しかしそのような自己であることを行為によって提示しなければ、抽象的な社会の成員資格が問われてしまう。だから目的のある自分とその達成を繰り返す。ほとんど神経症である。そして失敗するなら「自己責任」となる。なぜなら表向き、それは「自分探し」プロジェクトであり、実は社会的な意向ゆえであることは表面化しないからだ。

私はノウハウ本のたぐいに、こうした危険性を感じる。近代を経たがゆえに、匿名的で抽象的な「社会」が用意され、「客観=科学的=優越」のイデオロギーが受容されているだろう。しかし客観性への信仰に陥ってはいけない。客観性は恣意的なものだし、中立とも真理とも異なる。人生の目的とその達成手段を語るキリスト教会が、レシピを差し出しその中から選ばせて、教会員が自分で考えるのをやめさせてしまうことのないよう、監査文化の広義の政治性に絡め取られないよう、ことさらに意識的になる必要があると思う。

社会的、とか、集団的、というとき、われわれは暗黙のうちに公共性と「善」を想定していないだろうか。しかし社会は悪にもなり得る。集団は悪にもなり得る。教会は、ただ社会の要請を模倣して呑み込むことのないよう、注意が必要だと思う次第である。

 

◇ アイデンティティ

 

私が自分の信仰を見直したいと思ったときに、それまでほかの教会や教派や世俗や学術のリソースへのアクセスが嫌われる環境にいたため、そういうものを探すことから始めた。つまり教会単独の世界、読むのは聖書のみでいいという世界の外を知りたいと思ったら、自動的にそうなる。そのプロセスで、自分がそれまで通っていた教会を相対化することになり、教会は「この世(=ノンクリスチャン)」だけではなく、ほかの教会とも自らを切り離していたのだな、と思った。

その教会は、「私たちは神の家族」と言っていた。だけどそれは教会内のことを指すのだろうか。すべてのクリスチャンを指すのだろうか。なぜほかの教会と前に通っていた教会はこんなに違うんだろう。FEBCラジオに出てくる人の名前はほとんど聞いたことがなかった。知らない言葉がたくさんある。ほかの教会に行ったら誰も満面の笑みで近づいて「感謝しまーす」と言ったりしない。

このシリーズの記事で書いてきた、戦後の近代化の文脈における教会員と教会は、大げさに聞こえるかもしれないが、非キリスト者としての過去や、キリスト教の過去、日本の過去との断絶によって新たなアイデンティティを得ようとして失敗していたのではないだろうか。

アイデンティティを確認したいという思いは、人それぞれだろう。間に合ってます、という人から、アイデンティティという概念自体に疑いを持つ人もいるだろう。しかしその教会ではよく、キリストを信じることによって生まれ変わり、あなたの国籍は神の国になりました、とか、新しい文化を創りましょう、あなたにはキリストにあるアイデンティティが与えられており、それはほかでは見つけられないアイデンティティです、とか言っていた。つまり、キリストによる救いを信じる信仰に入り新たに生まれたから、そのアイデンティティがわれわれの人格的存在のすべてなのだ、と言いたいらしかった。別の文化、別のアイデンティティ、自分の過去からも社会の過去からも、国や世界の過去からも自由なまっさらのスタート。

しかし、アイデンティティも文化も、時間をかけずに指を鳴らしたとたんに出てくるものではない。上述のような「アイデンティティ」は、IDカード記載項目かのように誤解されているのではないか。また「文化」をカルチャーセンターで身につけられる教養や、エンターテイメントや、「文化というカテゴリ」で分類される行動ぐらいに思っているのではなかろうか。

C. リンドバーグという近世教会史がご専門の方が書いた、『コンパクト・ヒストリー キリスト教史』木寺廉太訳、教文館、2007というのを読んでいたら、その冒頭に、歴史家リチャード・ホフスタッターの警句(エピグラム)が出てきた。「記憶は個人のアイデンティティを紡ぐ糸であり、歴史は人々のアイデンティティを紡ぐ糸である」。リンドバーグさんは、私たちはヘンリー・フォードの「歴史はでたらめだ」という言葉を名言と見なすような文化の中に生きているが、過去を忘却することを安易に黙認する考えと、アイデンティティの欠如によってもたらされる危険に、警鐘を鳴らすために、この本を執筆したと書いてあった。またリンドバーグさんは、キリスト教徒は史的イエスが、死人のうちよりよみがえり、歴史を完成するために再び来られる歴史的なキリストでもあることを告白するとき、歴史に独特の解釈を施す立場を取っていて、それゆえキリスト教会のアイデンティティは歴史的な過去と歴史的な未来の両方に形づくられるという特質をもつと指摘している。要するに、キリスト教徒のアイデンティティは、自然や哲学や倫理でなく歴史に根ざしているというのが、この方のご主張である。(11月21日 1.リンドバーグ を C. リンドバーグに訂正)

この地にキリスト者として生きる時間の捉え方は、つねづね私が疑問に思っていたものだった。それについては別のときに書くとして、今回は過去からの断絶や、時間のない時間を生きることは、アイデンティティも、アイデンティティに深く関係する文化にも結びつかないと私は指摘したい。そして史的な事実としてのキリストの贖いをも否定するという矛盾にすら陥ることになる。

 

◇ 天と地に分離していない神の国を、地で生きること

 

こうしたアイデンティティ構築や文化創出の試みは、当時その中にいたときはカチンとくる程度であったが、今振り返ってみると、とても苦しいことだと思う。

私の場合は、伝統文化と呼ばれるもの―たとえば70〜76年に国鉄が行った「ディスカバージャパン」キャンペーン

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ディスカバー・ジャパン

 

の名残を雑誌で感じ取る程度にしか触れていなかったが、逆に消費者としてしか伝統文化と接し得ない後ろめたさや、商品化れた嘘臭さなどを感じて、引け目を感じたのも事実である。

 

バンクシーのWall art。大英博物館に展示してあるのが気付かれて撤去されるまで8日間だったらしい。現在はなんと収蔵さるているという(笑)。

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ほかにも私と同じように、「日本の伝統文化」に足をつけていない感覚をもっていた人もいるだろう。しかしその教会にはそういう人ばかりではなく、階層に関わらず生活環境では伝統文化の体系内で自分の位置があり、そこで共有される慣習や暗黙の了解のコードを読み解けるにもかかわらず、その教会を選んだ人もいて、昔ながらの教会には馴染みにくいという人もいた。だから高度経済成長下にあった郊外という条件は、当然のことながら、その教会のカラーを説明する唯一の条件ではない。しかし自分もなぜそこにいたかと考えたとき、こうした歴史的過去とどうやって関係を持つかを知らず、模索していたのだと思う。そして近代的個人を目指していたのは何もその教会の人達に限らず、私もそうだったのだ。

実のところ、この計算合理的に説明をつけたいという性癖は、近代特有のものというわけではなく、その人がもつ傾向という面もあるのでは、と思っている。つまり、特性。そういうことも含めて、近代を後にして、先に歩みをすすめたいものだと思う。