Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

小規模な一代目の教会での経験から近代との関係を考える(最終回)

 

このシリーズでは自分がこれまで通ってきた聖霊派の教会を振り返り、自分の教会経験が限定的であることを自覚しようと書いてきた。

その後ほかの教会に行くことで、以前の私の経験と対比することができ、今後自分の信仰に大切になるだろうことに、いろいろ気付いた。今日はその一つとして、「世」との関係と、「憐れみ」を考えてみたい。

 

この一年ほど、いくつかの聖書の勉強会や伝統的な教会に顔を出し、聖書を熟読する機会を得た。また以前このブログで書いたように、「公同の教会」の意味を熟考する必要があるなと思っている。

 

私がこのシリーズで書いてきたことは、結局、近代化という状況に飲み込まれ、その表層を真似た教会で、個人の過去と歴史的な過去を混同し、天から降ってわいたようなアイデンティティが出現したかのように想定して地を生きてしまったことへの反省である。それは、まるで100%霊的存在になり得るかのようにクリスチャンを定義するという点で、物質性や地にはたらく自然の理を含め、現実を否定するものだったのだ、と今は思っている。だからこの世を敵対視して自分たちの世界を作り、「信仰が足りないから癒されない」とか、「考えず、ただ信じて(教会が決めたように)行えばいい」とか言っていたのだと思う。

しかしこれは一種の乖離した「天と地」観である気がする。その理屈とは、「地」つまり「この世」に生きるクリスチャンはすなわち「天」の現れであるが、しかし地とは交わらない。物質を使用するという現象においては関係をもつが、それ以外の点では世とは関わりがないというクリスチャン像だったのだと思う。

 

◇ 「世」をいかなるものと認識するのか

 

哲学者たちが証明しようと苦闘してきた「神」のいる世界に住む私たちが、「神」を認識しない「世」といかに関係するのか。また、「世」を如何なるものとして捉えるのか。

証明できないものの存在を信じることは、近代的理性にとっては不合理であるから、近代のクリスチャンはその矛盾を抱えつつ、さまざまな形で信仰を保ってきた。私が通っていた聖霊派の教会は、異言や奇跡を重視していた。私が思うに、「天」から乖離した「地」に生きるという文脈において、「この世」からの乖離つまり異言や奇跡という「合理的でない神秘的現象」に「霊的世界」を見いだしていたのだと思う。だから地においても「聖霊に満たされた状態」すなわちアメリカの大衆伝道で人が倒れ群集が涙を流す、笑いつづける、といった、理性が働かない状態を、「神の世界の出現」と受け取る。つまり非理性的な状態は神の霊に「支配」されている状態を意味し、人間が理性を「明け渡す」ことの証左なので、好ましいということになる。大衆伝道集会的な狂乱に酔うことに時間を費やせば費やすほど、地を見ないで済む。しかしそういったことにうつつを抜かしていると、世との乖離はどんどんひどくなる。そうやって世の中との溝は深まってゆく。

そうした乖離ゆえに、言語も独自のものができてゆく。またいろいろな方法で世との断絶を実践しているインフォーマルな教師たちがいた。自分に反対する者(ノンクリスチャン)は敵だ、あなたを注意した同僚は敵だ、と教えている人。家族の誰も英語ネイティブでないのに「西欧の言語である英語が最もクリスチャン的なので家庭では英語しか話さない」人。私が思うにそういった接し方だとクリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく、人との関係を作るのが大変だよなあと感じるのだが、そうなった背景には、何らかの孤独になる経験があり、追い詰められていたからでは、と最近思うようになった。

こうした状況を見ていると、世は汚れた憎むべきものとして認識されているように思う。しかし神様は世を愛され、人を愛されているのではなかったか?神は私を愛して下さるのと同じように、ほかの人をも愛しておられるのではなかったか?

熱狂的陶酔の共有を神の世界の共有と同一視することは、そうした陶酔のない状態における神の不在を残念ながら意味することになってしまう。祭りのあとのように。そして変哲のない日常と、神の世界との連続性が見えない、という認識のまま進んでゆくことになる。しかしそれでは地を歩く足がふらつくだろう。いくらバタバタと倒れる聖霊降臨集会を増やしても、われわれは「未だ」肉体を持ち、再臨の前の段階にある。家族や友人が病気や死を経験する。そうした現実から目をそむけても、決して逃げられない。「それでも」神が共におられることを、現実において、信仰において、受容することができるか。

そもそも天と地はそのように遠く隔たり断絶しているのだろうか。稲妻のように聖霊が降り、人々が異言を語り預言をし酔ったようになったその時にだけ神の世界がつぎはぎのように出現するのだろうか。もしそうだとしたら、世を虚しく感じて当たり前だと思う。そうした虚しさが、自分は天と地との関係について誤解しているのではないか、と顧みるきっかけになることはあるだろう。私のように。

 

N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』はまさに、こうした天と地との関係を認識するうえで、私の助けとなってくれた。似たような疑問をもつ人にはおすすめである。(けどしょっぱなから、一神教の神についての説明があり、私が通っていた聖霊派の教会の人たちは、ここですぐ本を閉じるだろうな、と思った。)

(11月20日訂正あり。1. T. ライト を N. T. ライトに訂正。ミーちゃんはーちゃん様、ご指摘ありがとうございました。m(._.)m)

 

◇ 地で与えられたものとの関係

 

地での歩みについて、さらに話を広げると、私たちは信仰によって神の恵みを「コントロール」しようとしていないだろうか、という反省に駆られる。自然資源も神が与えて下さったもの。癒しも神様がなさることである。信仰があれば与えられるというが、与えるかどうか決めるのは神であって、私たちが決めることではないのではないか。

それらのものは人間が「使う」ために与えられている、「どんどん生産してどんどん儲ければいい」と言う人たちがいる。自然資源の破壊や収奪は、神の恵みや奇跡によっていくらでも回復可能なので、われわれ人間は気遣わなくてよいのだという。さらに、何を食べたり飲んだりするか心配するのはやめるように、というイエスのみ言葉を取り上げて、農薬や遺伝子組み換えも放射能も全く気にする必要はない、自分たちは神の民なので害を受けないからだ、とまで言う人もいる。

しかし、それは本当に神様が喜ばれる態度だろうか。そして人に愛を伝える態度だろうか。私たちはイエスのなさったみわざを人に話すとき、相手に対して同様に、神を知っている優越的な態度を取っていないだろうか。そこに、共に地の現実を生きる友としての共感の姿勢はあるだろうか。神を知っているわれわれが真理を知っている、喰らえ!と伝道をするとき、それは支配的な姿勢である。暴力的な姿勢である。私たちが持つ神のイメージとは、そのような破壊と力と支配の神なのだろうか。

神はわれわれが動物や自然を管理するよう委ねてくださっているが、無尽に与えるのでしたい放題食い散らかしても良いとはおっしゃっていない気がするのだ。地で人間や動物や自然とどんな関係をもつか、その関係性に対話はあるのか。私は自然の中に神が宿るという汎神論はとらないが、それでも被造物としての自然に神のわざを見て喜ぶ。

とても卑近な例かもしれないが、スズメが枯れ草の中で遊んでいるのを見て、冬が来るな、と思い、雨が降れば「あのスズメは寒くないかな」とか、「草刈機に巻き込まれないといいが」と考える。そして神様は私のことを、こんなふうに見ていらっしゃるのだろうと想像する。愛というには稚拙だし、スズメよりも価値があると神様から言われている人間と、神様を比較すべくもないが、それでも、目に見えずとも、今日も途切れることなく、そのように神様はいらっしゃるのだと思っている。

そのような、地での他者との対話を、私たちは持っているだろうか。対話とは相手を知り、相手が自分を知ることだと思う。花が相手なら、香りを嗅ぎ、茎をなで、形を見ることも、その花を知ることの一部である。愛することは難しいが、知りたいと思うのは愛ゆえなのではないのか。「使う」のとは異なる方法で、人を知り、自然を知ろうとすることに、他人は愛を見るのではないだろうか。そして神様の創造のわざの一端を見て喜べるのではないだろうか。

 

◇ 「憐れみ」が必要な私たち

 

こうした一連の自問自答を繰り返し、いまだに続けているのだが、つくづく自分は愚かだな、と思わされる。上述のことは、自分にも当てはまるし、ほんとうの気持ちに逆らうようにして、一時期は私自身がこうしたことを行っていたのだ。「思い煩わず委ねる」というフレーズによって、人の言葉を吟味することなく、同調してしまっていたのだ。それで自分の信仰はどれだけ成長しただろうか。洗礼を受けたころと、大して変わっていないのではないか。そして今気付いたのは、自分の愚かさと、何事も知ってはいないのだなという実感と、それでも私が食べて、血と肉をもって生きられるよう、生かされているということである。

最近お邪魔している古い教会で、「神よ 憐れんでください」と歌うのだが、まさに神との対比において、私はあわれな者だと思う。その私を神が憐れんでくださる。涙を流してくださる。そのことが自分の信仰の中にはじめて姿をとったと思う。

 

◇ 「憐れみ」という語の意味

 

ルカ10章33節の善いサマリア人のたとえでは、サマリア人が半殺しにされた人を「憐れに思い、」介抱したうえ、もし看護の費用がかかるなら払うから、と宿屋の人に言って去ってゆく。この憐れに思う、「憐れみ」という言葉は、はらわたがねじれるほどの情熱をもって憐れむという意味なのだ、とある勉強会で最近聞いた。

そしたら、ミーちゃんはーちゃん様のブログ(11月21日追記:このサイトをお使いではないとのこと)で、バイブルスタディツールのサイト(英語)へのリンクが張られており、そのLexiconで旧約聖書ヘブライ語新約聖書のギリシア語から該当箇所を調べられるようになっている。

www.biblestudytools.com

 

これは助かる。ミーちゃんはーちゃん様、ありがとうございます!

(11月20日追記:  ミーちゃんはーちゃん様はもうこのサイトは使っておられないとのこと。コメント欄参照)

 

旧約で使われている日本語の「憐れみ」に相当する単語としては、ヘブライ語(読み方で綴ると)のkheh’-sed(ヘセッド)が代表的なようである。また’Racham’ (発音は raw-kham’)や、発音がrakh’-amで異なるが同じく’Racham’とアルファベット表記される単語は、憐れみのほかに情熱や子宮、内臓、柔和な愛などに英訳されているそうだ。

新約聖書のギリシア語でルカ10章の相当箇所を探すと、憐れみは’Splagchnizomai” (発音はsplangkh-nid’zom-ahee)だそうで、これは先ほど書いたように、はらわたがねじれるように感情を動かされる(愛と慈悲pityとははらわたの中にあると考えられていたので)、とある。

そのような憐れみというのは、いても立ってもいられず、その人を突き動かすような憐れみなのだ。そのような神の憐れみを乞い歌う私たちの姿に、私は旧約時代の民の姿を重ねて想像してしまう。罪を重ねていながら神に助けを請う民の姿である。そのような神の憐れみを必要としている、その告白と祈りが、いま自分ができることなのだと思う。そしてそれでも見捨てない憐れみ深い神を想像するとき、私はすぐに放蕩息子に駆け寄る父をイメージした。遠くから見つけると駆け寄って口づけする父。

 

単独で自分たちだけで頑張り、行き詰ってしまっている教会があったら、どうか自派だけで、自分たちだけで解決しようと無理しないでほしい。ほかのキリスト者たちとのつながりを作ってほしい。教会の外にも仲間がいると知ってほしい。牧師でも何でもない私が言うのもなんだが。