Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

神の名をみだりに唱えていた?

さて、前回の投稿で書いたカトリックの神父による講座や、今参加している聖書の勉強会について。

私が知っていたプロテスタント教会やその界隈と、以下の点が違うと感じた。

① 「神」という語が出て来る頻度

② 枠はあるが内容をこと細かに指示しない

③ 自己啓発的な「生き方指導」がない

 

今日はこの①を取り上げる。

 

私が知っているプロテスタント教会は、何かにつけて「神」を語っていた。

「神はあなたに最高の人生を用意しておられます」、「神は愛です」、など、神を主語にする語り。また「神は今、◯◯を計画していらっしゃいます」といった語りなど。

このような傾向は、その教会の教会員が参加する集会などにも見られるものだった。だから当時はその特殊性を疑問視することがなかった。

たぶん2時間の礼拝のうち、聖書の朗読でない場面(説教、ワーシップソング、アナウンスなど)で、「神」という語が出て来る回数は、平均5回を下っていなかったと思う。

 

しかし、今通っている聖書の学びでも、このカトリックの講座でも、神を主語にした語りが非常に限られている。

このカトリックの講座では、「善きこと」、「善きもの」、「善き方」という語が出て来るのだが、これらが「神」に相当する意味で使われているような気がする。そして神に関する理解は、聖書の箇所を示して、各自が読む中で理解するような構成になっている。

また、以前の教会の教会員たちが読みもせずに悪口を言っていた書籍や宗派(FEBCキリスト教放送のホームページに寄稿したりしている方々)と対立しない聖書の学びに通う中でも(ちなみに私はそうした方々の本を今は参考にさせていただきながら学んでいる)、聖書の具体的な内容との関連で「神」という語を使用することはあれど、感話の中で「神は◯◯です」などと語られることが少ないと感じた。

それで、以前の環境でやたらと「神」とか「イエス様は」を連発するのは、実は不遜だったのではないかという気がしてきた。

 

そうした主語で語ることのあやうさは測り知れない。

第一、神を信じている、イエスを信じている、と言うことと、自分は神について語れるほど神を理解している、と言うことは違う。

神とはどのような方か、という説明は、以前通っていた教会では、「神は愛です」、「神はみなさんを祝福する方です」といったようになされていた。それらは聖書に書いてあることを要約し、中から抽出して語られている。聖書を読まなくても「だいたいこんなところだ」という程度に、スローガン的に神を語れるようなフレーズになっている。これは神と「直接つながり」、宣教を行う個を大量に生産するには都合のよい、分かり易いフレーズである。こうした言葉は「聖書に書いてあるらしいのですが」という前置きを省略して語られるため、あたかもその人本人が直接見聞きしたかのような表現になっている。しかしこうした言葉に到達するまでの経験や、聖書と向き合う中で建て上げる厚い関係性というものはそこに含まれていない。実際には「聖書にはこう書いてあるらしい」という以上の説得力も厚みももたない。それなのに「〜です」と言い切ってしまうこと自体が、軽薄であり、不遜であると私は思うようになった。

 

たまに神を身近で親しみやすいフィギュアのように語る人も散見されるが、これもそのような軽薄さの一種なのではないかと思う。とくに、神を父として、それもベタベタの甘やかされた同類の関係のように語り、自分は神様というdadのbabyなの、などと語る人がいるが、「親しみやすいアイドル」との関係になぞらえて、何か勘違いしているのではないか。そこに不在なのは、畏怖だ。私は怖がれ、恐怖を知れ、と言っているのではない。他人という人間すら知り尽くすことができないのに、まして神というとてつもない方を「知っている」ように語ること自体が、神を矮小し、手軽なアイドルのように扱う、とんでもない行為であると思うのだ。本当に知っていたら、その偉大さに対する畏怖が生じると思うのだが、「神と親しい私」というシナリオだけに捕われているだけではないのか。

 

さらに危ないのは、神を代弁できると思っていることである。

そうした代弁は「神は今、◯◯を望んでおられます」などといった形でなされる。「聖書に書いてあるところによると」という前置きを省略した前述の言明よりさらに圧力をもつ言い方である。この言い方は、人間が語っているというのに、絶対意思、絶対服従の意味を伴う。これは聞く人を支配しコントロールにつながる、とんでもないことである。こうした言い方が、教会の運営やイベントの計画、さらには教会員の進路に至るまで適用され、聞いた人は牧師や役員が本当に神を代弁する「油を注がれた器」だとして恐れ、服従してしまう。

 

頭がしっかりしていれば、そんなことを言って圧力をかけること自体がおかしいと気付く。しかしこうした「標語的な信仰」の枠の中で、パターン化された言動だけが承認されることを繰り返していると、自分の頭で考え探る力が失われて行く。「神」との関係についても、パターン化された言説や指標を参照して「神との関係」を語り、評価されることの繰り返しにとどまってしまう。自分は神を本当に理解しているのか、もっと理解したい、と思うにせよ、こうした言説との一致が到達目標になってしまうため、それを突き抜けることはできない。この言説を天井として、その下で手を変え品を変え、「信仰ストーリー」を紡ぎだす。しかしその言説の外には信仰はないのか?神はその言説の籠のなかに住まわれるのか?

こういう型に捕われていたら、その型自体を信仰の対象にしているのと同じなのではないか。こういった、他人が言明する「神」の理解をコピーして、神の名をみだりに唱えることは、人間には到底不可能であろうけれども真実を知りたい、という信仰とは全くちがうと思う。