Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「キリスト教」という「型」の違いと多様性の許容について

今日は前回の続きである。

カトリックの神父による講座や、今参加している聖書の勉強会と、私が知っていたプロテスタント教会やその界隈との違いから感じたことを書いてみる。


前回は、①「神」という語が出て来る頻度が違う ということを書いた。
今日は② 枠はあるが内容をこと細かに指示しない という点についてである。

 

私が通っていたプロテスタント教会では、「クリスチャンとしての規則」のようなものが礼拝の説教で語られたり、礼拝以外のディスカッションや聖書の学びといった活動、さらに「弟子訓練」という少人数での集まりの中で共有・再確認されていた。

それらは指針というより規則に近かった。内容は、酒とタバコは悪、神社の鳥居をくぐってはいけない、焼香は駄目、異なる宗教の儀礼に出席するのはタブー、といったものだった。これらは牧師、もしくは役員が聖書の抜粋箇所を参照して正当化し、行動への制約として述べていたものである。

さらにクリスチャン以外との結婚はよくても「遺憾」なものとして扱われ、ひどい場合には直接「神に逆らっている」、「不従順」、「不信仰」との言葉を投げかけられるのであった。

こうやって共有されたタブーのほかにも、もう少しトーンが弱い規則もあった。ファンタジー映画や小説、聖霊派・カリスマ派以外の著者の本、進化論を肯定する書物や学校、社会運動などなど。そして他の宗派はとても忌み嫌われており、キリスト教の仲間どころか、「敵」とすら表現する人もちらほらいた。

そういう「敵」の特徴として、「型」をもった信仰というものが挙げられていた。たとえば祈禱書、建物の様式、イコンや象徴の使用、典礼、教会暦。それらは「型」であり中味を欠いている、信仰は心の態度の問題でありわれわれは心を変える必要がある、「型」に頼るのは信仰ではない、「型」を信仰するようになって偶像崇拝である、といった理屈であった。立派な教会堂などをありがたがるのは中味を見ていない証拠である、という。

 

教会の週一回の礼拝も、弟子訓練という教会外での集まりでも、こうした「心を変える」ことで「新たに生まれ変わ」った日々の営為が教えられていた。こうした規則というのは、ある意味、分かり易い。チェックリストのようなもので、何をクリアしていれば胸をはっていられるか明らかなのである。

 

私もはじめのころはこうした考え方に疑問を持たなかった。しかしその教会を離れ、カトリックの講座に出たり、聖書の学びに出たりしているうちに、疑問をもつようになった。

そのプロテスタント教会(やその界隈)が言っていたような祈禱書、様式をもつ建物、象徴、典礼、教会暦といったものは言語化されない理解を人にうながす。その解釈は多様であるが、その講座はそれを当たり前として許容しているようだ。また聖書の学びを進める中で、以前は読まなかった註解書や神学の本なども読むようになったのだが、そうした本も個々の生活に踏み込んで矯正するような方向には働いていない。

 

それで考えたのだが、以前通っていた教会は、「型」を嫌うわりに、個々人を「型」にはめていたのではないか。キリストの救いによって自由になった、というが、その後の生活は規則を守ることで「新しく生まれ変わった」と見なされる。彼らはこうした規則を「律法」に準ずるものと考えており、旧約聖書と同じく人間には律法が必要なのだと言って正当化していた。

 

新しく生まれ変わったから規則がなくてもこれまでとちがった生活を送るようになった、というのとは逆の因果関係ができている。それが自由なのだろうか。ここには日本で一般的に考えられがちな「自由」という語の定義の誤解があるような気がする。自由という語は巷で「自分本位に好き勝手にふるまうこと」という意味で使われることが多い。だから制限すべきものとして認識されていることが多々ある。このあたりはもっとロマ書などを読んで考えてみようと思うのだが。

 

一つ現時点で言えるのは、型にはまった信仰と思われるような、お堅そうなカトリックや伝統的宗派の聖書研究が、実は個々の多様性を許容していることである。今出ている講座や聖書の学びは、生活態度に関する指示というものがほとんど無い。そういう指示を求める人には肩すかしなのだろうが、聖書を読み、考え、自分で判断させるように促している。

逆に型にはまらない本当の信仰という売り文句のところが、個々の生活態度に踏み込んで心をコントロールしようとしており、かえって個々の多様性を認めていないことである。

 

これらは「窮屈な伝統的コミュニティ」というイメージとごっちゃになって、見過ごされているのではないかと思うことがある。前近代的な伝統的コミュニティと昔は言われていたような地域に行くと、皆に共通するゆるい枠を守れていれば、それ以上踏み込まない、個の違いを許容する地縁関係があったりする。「あの人はそういう人」、「それはあの人の好み」、で済むようなことまで、ことさら同化させようとはしない。

そういうわけで、伝統的な宗派が多様性を許容できる仕掛けと体勢をもっていることに気付いたのだった。