Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「教会員」なのかキリスト者なのか

今日は前2回の投稿に続いて、最近通っている講座や聖書の学びから、以前通っていたプロテスタント教会での経験を振り返ってみたい。

 

以前通っていた教会では、週一回の礼拝や、弟子訓練セルグループという少人数の教会外での集まりで、②で挙げたような「正しいキリスト教」の規則が伝達され、共有されていた。さらにこうした規則のみならず、日常生活が「信仰深い」ものとなっているかどうかも関心事となっていた。それは「聖書を日常生活に適用する」とか、「神様を第一にする」といった言い方で推奨されていた。

 

この考え方では、神に捧げる人生を送るのがキリスト者の務めであり、それを実現しようというものである。そのような務めは、教会への献身的な(犠牲を伴う)奉仕、教会への協力的態度、聖書を読んだり祈ったりすることの厳守、②で書いた規則の遵守を指していた。そして教会員同士がセルグループに入って密接な関係を持ち、世に流されないために互いに励まし合うことが推奨されていた。

 

まあたしかに聖書は神を愛せよと言っているのだが、その教会では神を愛しているかどうかを主に上述の行為によって計っていたため、これらを行わないと、信仰が足りないとか、神を優先していない、と言われてしまう。そして実質的にはセルグループのリーダーが日常における信仰深さの測定基準を作っているようなところがあり、毎日どれだけの時間を聖書を読むことと祈りに費やしているかを尋ねられる。日常生活のあれこれを、正しく行っているかどうかが指導される。

また一人一人に聖霊の賜物が与えられており、それを活かして教会の役に立つ人間になるためにどのような研鑽を行っているか、といった話も「キリスト者なのだから当然」のこととして尋ねられていた。この場合、「教会の(直接の)役に立つ人間」というのが重要なのである。その教会は比較的規模が小さく、もう何十年も運営されているのだがとくに華々しい活躍はなく、親教会に認められたいという一心で教会としての業績を意識しているようなところがあった。教会員の中には、民間の団体で社会貢献の分野で立派な働きをしている人がいたのだが、それは教会の活動ではないからと切り捨てられていた。その分野の活動を教会で行おうというときももちろん、その人の助言を仰いだりすることはなかった。本当にもったいない話である。

 

実際にはそれぞれ仕事や学校があり、家庭があり、教会の外の世の中と関わらずに生きている人は一人としていないのだが、あたかも教会がすべてのように生きることが推奨されていた。それが洗礼を受けた者の「新しい人生」なのだということらしい。

 

しかしその教会やその界隈の外で、ほかの教派などに触れてみると、今のところ、そこまで閉鎖的なコミュニティを作ろうとしていない感じを受ける。私が最近出席している講座や聖書の学びでは、一人一人が異なる人生を持っていて、その一部として講座や学びに出ているという態度で接してくれている。もちろん聖書を毎日読み、毎日祈り、教会の奉仕をすることにも否定的ではない。しかし教会がすべてのように振る舞わなくても仲間であると認めてもらえているという感覚である。

 

この点でも、②で書いたような多様性の許容に大きく関係している。つまり以前の教会では、個々の社会関係が最も集中する場を教会にしよう、というよりも、その教会の人間として「生まれ変わる」ことがキリスト者としてのアイデンティティの獲得を意味していたのだろうと思う。これに対し、私が最近顔を出している学びのグループは、社会関係が教会や特定のグループに集中することはあれど、教会がアイデンティティを決定するわけではない、という考え方をしているのではないか。

 

私も含め、人はそれぞれ得意なことや苦手なことがある。そして得意なことを活かせる環境がいつも教会内にあるとは限らない。それを「「聖霊の賜物」だから教会で使うべき」として、教会員を「教会のために生きる人」に変えることが至上の価値になってしまっていたのではないか。それは実は本人のためにも、教会のためにもならないのではないかという気がしている。