Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

字義どおりに読む聖書は死んでいた

まだまだ続く、私がいままで知らなかったキリスト教

私の場合、「いままで知らなかった」というのは、「異文化だから」とか、「馴染みがないから」という理由ではない。以前通っていたプロテスタント聖霊派)教会での生活が、非常に偏っていたゆえである。

だから他の教派の人からすると、そんなことも知らないの?!と驚くようなことも多々あると思う。

しかし恥をしのんでここに書くことで、自分の経験を整理し、成長につなげて行きたい。また、同様の環境にいる人が、自分の「キリスト教理解」とか「信仰」を考えるきっかけになればと思う。

 

この2年ほど、さまざまな教派の人が集まる聖書の学びに出席している。そのために註解や解説書のようなものを読むようになった。そして自分の聖書理解がいかに不足しているかを日々痛感している。

 

ちなみに以前通っていた教会は、特定の聖霊派の本は推奨するが、神学や他の宗派の人の書いた本は「信仰にとって危険」なものだと周知していた。哲学も「人を高ぶらせる知識」として忌み嫌われていた。聖書はそのまま字義どおり読むのが純粋な読み方であり、読めば霊感によって理解できる、というのがその教会の主張だった。

そんなわけで、福音書のテクストは霊感によって書かれたのだから、書いた人がどのような人か知る必要はないというのが彼らの主張だった。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人を「福音記者」と呼ぶこともなかった。なぜならそれらの人々は神に用いられて神の意を記しただけであり、彼らの意図とは関係ない、というのが彼らの主張だったからだ。その考え方によると、聖書のどの箇所もすべて、俗っぽい言い方でいえば「霊に満たされて」本人の意図とは関係なく書かれたということらしい。だからそれらを書いた人がどんな人かという点は無視してしてよい、書かれた言葉だけ字義どおりに読めばそれでよい、という説明なのであった。簡単に言えば、筆者ごとに関心や特徴が異なるにも関わらず、聖書は一般の書物とは違い「自由意志をもつ通常の状態の筆者」が書いたのではない、という説明によって、排除されていた。

 

そう教えられてきた私は、「人の意図によって聖書を曲げては大変だ」と信じ込み、「純粋な読み方」をすべく、註解書も神学書も、歴史解説書も避けてきた。そんなわけで、私はその教会を離れ、いろいろな教派の人が集う聖書の学びに参加してはじめて、聖書が編纂された歴史的背景や、新約聖書の記述の背景、当時の事情、「福音記者」(!)がどのような人だったのか、などなどを意識するようになったのだった。はじめは非常にきつい忌避感があり、「純粋な読み方をしていないのでは」、「タブーをおかしているのでは」と脅えていた。しかし、こうした分析的な読み方の初歩に踏み出すにつれ、知りたいという自分の気持ちに肯定的になりはじめた。自分自身の関心や興味が解放されると、不思議なことに、聖書が一方的な神の言葉の自動筆記の結果ではなく、自分と同様に意思があり、人生の営みを持つ人間が神との対話において書いたものであると感じるようになった。すると聖書が息吹をもつような、対話の中に息づくことばであり、その中に自分も参加しているように思えるのだった。

 

このような変化は、私にとっては不思議なことだ。この変化は聖書というテキストへの分析の視座だけにかかわらない。たぶんそれは、神と人間との関係のあり方についての私の観念を変化させたのだと思う。一方的に語り対話を拒む神の言葉から、異なる個と対話する神の会話に、筆者とも異なる自分が参加する対話へと、見方が変化した。

 

こうした大きな変化のほかにも、聖書を読む中で具体的に理解が変化した箇所が多々ある。次回以降はそのことも書きたいと思う。