Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

根拠のない精神論から立ち返って、聖書を読み始めた

長いことプロテスタント教会に通い続けていたものの、教会で聖書を開いて周りの人と一緒に読み理解するということがなかった。

聖霊派だからなのか、教会の個性か。


説教では聖書の一部分が抜き出されて語られるので、それを聞いて理解すれば充分だと思っていた。


私は本の虫だから、聖書を他の書物と同じように扱ってはならない、まっすぐに受け取らないといけない、そのためには穴が空くように噛り付いてはいけない、とタブー視していた面もある。


そのかわり、プレイズソングを大きな声で一生懸命歌い、自分の心を表すことが大切だ、思い込んでいた。言うなれば、根拠のない「精神論」だ。


その教会が数年前に宗旨替えして、牧師が「毎日自分で聖書を読みましょう、ディボーションしましょう」と言うことが増えた。


一昨年から私も精神論では立ち行かない状態になり、自分で聖書を読むようになった。

ちゃんと理解できているか分からないが、とにかく読み通してきた。一般知識としての勉強や、知識の多寡を競うためではなく、神様を理解したい一心で、解説書を参照しないでいた。


昨年になって、めったに言葉を交わすことのなかった牧師に、自分の精神的なストレスが体に出るという窮状を訴えた。すると「ディボーションしてますか! 聖書のみことばというのは、神様からの約束なんですよ!」と言われ、驚いた。


聖書の色々な箇所に、預言や人間への約束(例えばモーセに与えた言葉など)がある。それらは約束だが、あとは記述だ、くらいに捉えていたから、

ここにたくさんの約束が隠れていて、自分で読み取っていかないと私の理解は進まないんだな、とショックだった。


わたしがすがれるものは、聖書のみことばしかない。だから必死に読み、書き留める。ある時はシャッキリと、ある時はあまり回らない頭で。


しかし読み続けているうちに、私が考えていた神様のイメージは変化してきた。

親から財産を分けてもらい、享楽に明け暮れて財産を食いつぶし、父の元で使用人の一人に加えてもらおうと父の元に足を運ぶ息子。その息子の姿が見えるや、まだ謝りもしないうちから、父は走りより、口づけして、息子が帰ってきた、祝おう!と言う。

なんと愛にあふれた父だろうか。その喜びがこの箇所に多々記されている。

また、イエス•キリストが私のために十字架につかれ、死なれ、3日後に蘇られたゆえに、人の罪は赦されたのだとは、頭では分かっていた。しかしその贖いのスケールが大きすぎて、私の頭や心には輪郭しか残らず、空白だらけだった。


しかし、読み続けると、イエス•キリストがどれほど私を愛しているかが、想像できるようになってきた。


遅い歩みではあるが、前進かな。