Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

聖書の読み方が変わって気付いたこと:②パウロをどう受け止めればよいのか

今日は前回に引き続き、聖書の読み方の変化によって気付いたことを書く。これは以前通っていた教会での字義通り解釈から離れ、註解書やキリスト教書等を参照しながら、ゆっくりじっくり聖書を読むことで引き起こされた気付きである。またそうした字義通り解釈を行う教会の特徴的な活動ももちろん、聖書を読むことや理解すること、理解を実践することに深く関係していた。

 新たに得た気付きはたくさんあるのだが、中でも私が信じるキリスト教として自分が今まで語っていたことがひっくり返るほどのインパクトのあるものを二つ取り上げることにした。前回は①福音書の物語の中に書かれた政治的背景 について書いた。今日は②パウロをどう受け止めればよいのか についてである。

 

弟子訓練に力を注ぐ教会でのイエスの位置

 

以前私が通っていた教会は、前回書いたように、聖書の字義通りの解釈を実生活に当てはめることを推奨していた。そうした聖書の読み方は、説教や教会活動、信徒どうしのやりとりの中でも常に肯定され、確認され、実行にうつされていた。

 近年になって弟子訓練なるものがその教会の関心に加わった。弟子訓練というのは、韓国系の教会などで盛んらしいのだが、教会員の中に信徒のリーダーを数名立てて、そのもとに小規模なセルグループというものを作り、日常生活の中でも信仰生活を互いに支え合うといったものである。そこでは牧師が認めたグループリーダーがグループメンバーのために祈ったり、何かとケアするということになっている。そうしてイエス・キリストの弟子を育て、訓練するという趣旨である。

 このセルグループが始まる前から、その教会では洗礼をすでに受けた人が目指すものを「イエス・キリストを伝えることを使命としたイエス・キリストの弟子」みたいに定義していた。つまり目的語は「弟子」である。

 洗礼は、イエス・キリストを信じる者となる、という告白と一緒になされる。そして毎週の礼拝での説教は、おもに(訪問者もほとんどいないので)教会員に向けた啓発的な内容であった。そこではイエス・キリストのことが語られることが非常に少なかった。クリスマスやイースターは訪問者がくることもあったし、それらを祝う理由がイエス・キリストの生誕や復活であるため、イエス・キリストの話が出たが、それ以外の礼拝説教では、圧倒的にパウロの話が多かった。たまにダビデモーセアブラハムの話も出たが、文脈をすっとばし、神が彼らに語られた言葉を引用して説教がなされていた。いずれも主旨は「だから彼らのように神に従いなさい」というものであった。神は従順を求めていらっしゃる、あなたがたはイエス・キリストを信じる者となったので神に仕える者になったのです、というわけだった。こうやって、「弟子」とは「神に仕える者である」ということ、そして「仕える」とは「神を宣べ伝える」ことである、という説明が、手を変え品を変え、毎週繰り返されていた。これらに「聖霊に満たされる弟子」という像が加わり、そうした弟子像に接近すべく実践することが第一の課題になっていたのである。

 そんなわけで、イエス・キリストとはどのような方かを追求する機会はほとんどなかった。今思えば、前回の記事でも書いたように、イエス・キリストへの信仰を告白すれば、もうそれで弟子の段階へと移るという理由からだろう。ちなみに入信というのか、洗礼を受けるまでには牧師のセミナーのようなものがあったと記憶しているが、その内容は前回書いたような、四福音書のイエスの出来事の共通箇所を要約したようなもので、復活を信じるかという点に重点が置かれていたと思う。

 しかし最近になって、別の教派の教会が「イエス・キリストを模範とする」と言っているのを聞いて、えーっ!と驚いた。私のそれまでの環境では、使徒や弟子が模範として語られることはあれど、イエス・キリストはそのように捉えられていなかったからである。

 

勝利者としてのイエス」の弟子

 

さらに前回書いたように、イエスのできごとについてのその教会の解釈からは、当時の政治的状況や歴史的文脈は抜け落ちていた。そこで重要視されていたのは、(人間となった神の子イエス・キリストは神の意図により地上で過ごし処刑されたあと、)復活した、という点である。こうして死を打ち破り復活した方がわれわれの主である、という告白が、「弟子というわれわれ」の背後にある、という理屈である。イエス・キリストの地上での生きざまはそこでは問われない。ただ死に打ち勝った、悪魔を破った、ということが強調され、「だからわれわれには万能の力が与えられている」、「聖霊によって信仰があれば何でもできる」という弟子としての生き方が中心的な関心になっていたのである。

 しかし福音書をつぶさに読んでいくうちに、イエスの地での生き方を分かっていなかったということに気づいた(前回の記事)。イエスは弟子や人々が望むような武力と権威をもつ救世主として地に生きられたどころか、それとは正反対の姿である。私が以前の教会でほかの教会員と同じように「勝利者エス」を振りかざしていたのは、イエスの周りにいた福音書の中の人々と同じく、大きな勘違いなのではないか、と自問するようになった。そしてどれだけの大きな断絶がそのような理解と他の教派の人々とのあいだにあるのだろうか、とキリスト教理解をもう一度振り返らなければと思うようになった。

 

パウロや弟子たちのイメージと模範

 

そういうわけで、以前の教会では新約聖書パウロやその他の使徒が主に参照されていたのだが、これはキリスト者を「弟子として生きる」と定義する教会にすれば当たり前のことだったのだろう。新約聖書の多くをパウロの書簡が占めている。そしてそこに書かれていることは初代教会の営みやパウロの神学である。その教会はそれを字義通りに参照していた(とはいえ持ち物も共有しローマ、次いでユダヤとの対立に苦しんだ古代教会とは社会も時代も異なり、同じようにはできないとうすうす感づいてはいたのか、実際にそのような共同体を作ることはなかったのだが)。

 そして、おなじパウロであっても時代を経て書簡の文脈や事情も変化しているのだが、そういうことは捨象し、パウロを見習って宣教するのが弟子の務め、という具合に、熱血漢パウロという印象が理想的な弟子の像となり、それと似た人物としてダビデが参照されていた。神への服従的態度と宣教への熱意が信仰の物差しとして使用され、キリスト者となった者の努めは宣教以外にはないのだというメッセージのために聖書が使用されていた。ダビデが嫁に恥ずかしいと思われるほど熱狂的に踊り狂って神を賛美したとか、アブラハムが息子イサクを捧げたとか、モーセは自分の民のために地位を捨てたとか、そういう一文を抜き出して、自己犠牲的に宣教に身を投じることが神の望まれることである、という教えがなされていた。

 こうしたことに疑問を持つようになり、「理想的な弟子のあるべき姿としての熱血漢パウロ」像を離れ、今後は新約聖書パウロ書簡をどのように読んでいくか、考えたいと思っている。

 

宣教要員としてのクリスチャン

 

そういうわけで、自己犠牲的な宣教の役割を果たすことがクリスチャンであるという硬直的な定義に閉じ込められていたころは、こうした理屈の可笑しさに気付くどころか、その内部の論理で責め立てられるばかりであった。しかしそこから身を離し、書物や集まりでほかの人の考え方や見方を学んだことで、聖書の読み方も変わり、聖書を読むことが自分の経験の一部に染み通るように感じている。

 いまは、クリスチャンを宣教要員としてしか見ないのは、非常に危険だと考えている。一人一人にさまざまな特徴があり、ノンクリスチャンと一緒に生活するなかで自然ににじみ出るものがあるだろう。それを許容できないのは、人を愛しているとは言えないのではないか。役割を規定して物差しによって働きを測定するのは、人を道具化しているのと同じことなのではないか。またこれと共通して、人との交わりを「宣教の機会」として定義したり、活動をすべて宣教活動と定義することも、相手の人を「目標達成の道具」としてしか見ていないということなのではないだろうか。

 

今回2回に分けて、聖書の読み方が変化して気付いたことを書いた。これらはほんの一部だし、これからもたくさんの気づきが出てくるだろう。しかしたったこれだけの変化から、ぼろぼろとほかの部分の薄っぺらい理解や、それに連なる危ういキリスト教理解が明らかになった。自分では「助かった」と思っている。