音楽の好みが変わったのは、好戦的な状態に疲れたからかも?
ずっと聖霊派の教会で、やる気モード全開がデフォルトの礼拝だった。
しかし体調を崩して5年。
2年前に体調が悪化したのを機に、聖書を自分で読み始めたり、自分の信仰を見直すきっかけが次々とやってきた。
そして、一つ大きな分かり易い変化が。
体がエネルギッシュなバンドのプレイズソングの音に耐えられない。心臓バクバクする。演奏してる諸君、ごめん。
昔からロックばかり聞いていた私が、何たることか。
けっこう詳しいと自負しているし、好みだったはずなんだ。
しかし、考えてみれば当たり前か。電気で音を増幅してるんだから。
音という刺激物を壁に囲まれた狭い空間で増幅して与えてるんだから、緊張するのは当たり前なのだ。
そこに、勝利とか、敵を打ち破りとかいった歌詞が乗ると、これは好戦的以外の何物でもない。
槍を振りかざして、戦いだ、戦いだ、と声を張り上げるのと同じだよ。
この場合、主眼は「戦い」であり、神の慈しみとか、平和とか、麗しさとかか、憐れみなんかが、スッポリ抜け落ちている。
おばちゃんは精神的に疲れたよ。
さらに礼拝以外の場でも、こわいことばかりいう人がいたりする。
自分に都合の悪いことはみな、敵のせい。仕事場の人間関係が上手く行かないと愚痴る人に、内容を聞かないまま、あなたがクリスチャンだから敵が攻撃しています!敵よ呪われよ!などと言っている有力な教師がいる。この人はこの一年ほどに、平日もほぼ毎日家庭集会を開いているらしい。
暗いニュースが多いことも相まって、私も精神的に参っていたが、その教師の弟子状態の人の中にも、恐怖に取り憑かれたみたいになってる人がいた。すると、件の教師は、信仰が弱いからだ、勝利したことを信じないからだ!となるし、
牧師は一言、「聖書を読んでますか!聖書を読みなさい!」だけだし、
副牧師は「悪霊を追い出さなくてはいけない」になる。
渦中にいる人は必死だから見えないけど、戦いを仕掛けて戦いをデフォルトにしてるから戦っている、という、なんとも自己完結的な視野狭窄に陥っているのではないかと思った次第。
平安がないのに、平安があるだろ、あると言え!と力ずくで迫るような、そういうかんじ。
べつの教会に行って、静かにオルガンで歌ったら、祈りと賛美のことばが、ちゃんと天に届いてると感じられた。
静寂も大切なんじゃないのかな。