Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

若い人しかいない教会「だった」教会の先行き


このブログで何度も、私が前に通っていた教会について書いてきた。仮にこの教会を「NC」としておこう。


ミーちゃんはーちゃんという方の「若い人しかいない教会で気づいたこと」

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=889


という記事を読んで、NCはいわば、昔は「若い人しかいなかった教会」なのだと気付き、一つの例として書き留めておくことにする。


◇昔は若者ばかりだったNCの特徴


現在若者が少ない点はミーちゃんはーちゃん氏の記事で挙げられた教会とは異なるが、それ以外は共通点が多いと思った。

バンドの演奏でノリノリで「感動に満ちたワーシップ」の教会である。


特徴としては、過去のエントリを見ていただければ分かると思うが、

聖書は各自が繰り返し読めば「霊的に」分かるようになるとし、歴史的文脈を無視して聖書の言葉を取り出して標語のように用いて説教する。

内容は聖書の釈義ではなく、指南的なものである。今思うと、コレを日基の教会や長老派、改革派、メソジストあたりで語るのはあり得ないだろうと思う内容の説教である。


「あなたには神の特別な計画が用意されている」、「神の要請に応える」などの見出しを用いた説教が多い。

神に愛されていることと、神に仕えよとのメッセージが、毎週違う内容で、違う聖書箇所から語られていた。


たまに教会のプログラムとしてリック•ウォレンの本に沿った人生の目的勉強会があった。

また、賜物を知って役立てるための勉強会もあった。

しかし全体的に読み書きするプログラムは少なく、過去数年間、聖書を一緒に開いて読む機会はなかった。


ミーちゃんはーちゃん氏は記事の中で、今後ノリノリ若者教会はどうなるんだろう、と言っておられるが、NCの場合は、30年ほど前に若者であった人々が続けてきて、現在いる若者(30代以下)はほんの数人。みな教会員のお子さんたちである。つまり「若者の教会 その後」の一例かと思う。


◇昔は若者ばかりだったNCが持つ未来への目標


単純に比較はできないのだが、私は通っていてぼんやりと先の見えなさ、積み重ねの厚みのなさを感じていた。何かが違う、と思っていた。


20年も籍(?)を置いていながら、私が行き詰まりを自覚するきっかけとなったのは、牧師が言った「(アメリカの母教会の牧師は)ハーレーダヴィッドソンに乗っていて、かっこいい」という一言だった。


牧師が崇敬の口調でこう言うのを聞いたとき、何かがガタンと音を立てて落ちた気がした。


世代交代が近付く中で、将来のビジョンが語られ始めたときだったので、ショックもひとしおだった。

そのビジョンとは、何百人もの「観衆」が入れる教会堂建設というものだった。

総合施設のスタジアムみたいな教会が人の集まるコミュニティとして機能するという、アメリカのモデルを想定しているようだった。

何か思いいれがあるのか、「アメリカの教会は堅苦しくなくてコーヒーマシーンが置いてある」、「自動販売機も教会の中にある」といった話も繰り返し説教の中に出てきた。


バンドの次は、ハーレーダヴィッドソン乗りか。

それで、中核にいる人たちが何を求めているのか、輪郭が掴めた気がした。


私はこれまで「違和感があっても合わさねば、愛さなければ」と自分の感情を無視し続けてきたのだ、と痛切に感じた。


◇昔は若者だった人たちの特徴


中核にいてNCを立ち上げ、礼拝を守ってきた人たちは、学生運動が終結してから大学生になった世代である。

役員は男性に限定されており、牧師を含め男性たちは、アメリカに対する憧れを強く持ち、バンドはカッコいい!と考えており、ワーシップの中で「オーyeah, Lord!」、「エイメン!」と声を張り上げる。

時間もお金も労力もバンドの音響や設備にかなり使っていて、こだわりがある。

このあたりの「熱さ」は、NCの現在の若者とは温度差があるし、今現在若者で溢れている教会とも感覚が違うだろう。


今60歳に達しないこの男性たちは、問答無用でアメリカを世界一だと思ってきた人たちである。

そして彼らの息子や娘たちとは違い、働けば報われる経済的一億総中流の実現を経験してきた。今の20代より趣味にかけるお金がある。

そして家事や育児も専業主婦に任せっきりで趣味に打ち込める。趣味は男性の特権となっている。


◇彼らが希求するものを考えてみた


彼らは今、教会員が一丸となって取り組める目標が欲しいのだろう。

しかし時代は彼らの経験した高度経済成長期とは違う。

ノンポリがこの教会の特徴で、社会問題にはノータッチを貫いているから、現実の社会的状況は問題外なのかもしれない。


私が今振り返ると、NCは結局、アメリカに追いつき追い越せと走るなかで得た、物質的豊かさの象徴の獲得の近辺を今もなお漂っているのだと思う。


一生懸命、どんな風に認識しているんだろうと私なりに想像してみた。


彼ら(男性に限る)は趣味(=好み)を接着剤にしてクリスチャンの人間関係を作り、その中で互いに学んだりしていたんだろう。つまり、趣味が合うかどうかが、集団としての区切り方なのだ。


その共通項である趣味(=好み)は、礼拝だけでなくライフスタイル(物質的消費も含め)をたぶん志向している。彼らが求めるのは、「アメリカンスタイル」の実現なのだと思う。実際にはアメリカと言えども広大で、大雑把に言っても東と西では大分違う。彼らの中にはアメリカに長期滞在した人はいない。しかしバンド、音響機器、コーヒー、くだけた雰囲気、ハーレーダヴィッドソンが象徴する何がしかのアメリカらしさの実現を、彼らは求めている。


だからと言って、キリスト教をその実現の手段に矮小しているわけではない。

彼らはたぶん、「アメリカ風」とキリスト教を切り離せないものとして認識している。

逆に言えば、アメリカ風でないキリスト教とはどんなものか、聞かれても困ってしまうだろう。


本や映画などでヨーロッパのキリスト教を知ることもできるが、彼らはキリスト教書の大半は危険だと言って遠ざけており、読むのは系列教会からのお墨付きの本だけである。観るのはもっぱらアメリカ映画で、国内ではもちろん、教派の違う教会との交流は無い。


そんなわけで、ほかのノリノリ教会にも当てはまるか分からないが、人口の少ないクリスチャンの中で、集団の区切りの根底に「アメリカのくだけた教会」志向があったのだな、と知った次第。

この「アメリカのくだけた教会」が日本の少子高齢化にどう対応してゆくのか、それは分からない。