Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

若い人しかいなかった教会にコメントをいただきました。&先行きの手探りについて

以前このブログでミーちゃんはーちゃん様の記事とURLを参照させていただき、それをきっかけで記事を書きましたとお知らせしたところ、読んで下さり、ご自分のブログにて「若い人しかいなかった教会その後(ケーススタディ)」と題してコメントを下さった。

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=902

 

私の経験に関して、なるほどそうか、と理解する助けとなりました。ミーちゃんはーちゃん様、どうも有難うございます。かなり平坦な記述なのに、親切にお礼を述べて下さって恐縮です。

 

さて、その内容について。やはり私の今までの信仰生活は見直すべきものだったとの確信を新たにした。

 

「形から入るメガチャーチ、エッ」

という見出しからは、ミーちゃんはーちゃん様が驚かれたことが分かる。私は今までやはり、ぼんやりとしていたのだなと思った。結果的にはもうその中にはいないが。情けないことではあるが、未だに「牧師はそう言うんだから逆らったら罰が当たる」と言ってそのまま残っている人もいるので、立ち消えにならない限り、その方向でがんばるのだろう。また、立ち消えになったとしても牧師は、みんな分かってくれない、と何がいけないのか気付かないまま時が過ぎていきそうな気がする。

しかしこうしてミーちゃんはーちゃん様がご説明くださった、アメリカのメガチャーチが成立する背景は、説得力がある内容だ。

(以下引用)

基本、あれができるのも、野外集会以来の会衆者を集めるという伝統があり、チャーチホッパーがやたらとたくさん存在し、1日に教会を2件も3件も、(多くの場合は祝福されることを求めて、ということらしいが)はしごする人たちや、教会にある特定の牧師のグルーピーのような人々が回ってくるからこそできる芸当で、そんなバブルの化身というのか、バブルの化石のような教会堂を持ってしまえば、あとが面倒だし、掃除やメンテナンスコストはバカ高い。カリフォルニアのような乾燥した気候でない限り、日本でそんなものを作った日には、エアコン代とエアコンの電気代がバカにならない。身の丈を知る必要があるような気もするのだが。

(引用ここまで)

 

こんな意見をできる人が教会内にいなかったので、今そのまま「メガチャーチ作らなくちゃいけない」と思ってる人は、どうか、検索でヒットして、目を覚ましてくれればと思う。

 

「アメリカにあこがれた教会と教会員の考現学

との見出しの下には、昔若者ばかりだった現在の教会の先行きの見えなさと手探り状態について、このようにお書きである。

 

(以下引用)

 その意味で、閉塞感が今、若者しかいなかった教会にも漂っているのだろう。若者しかいなかった教会も、他の日本の多くの教会と同じように、目標もなく、経済成長もなく、信者の成長もなく、という閉塞感のキリが漂い始めているのかもしれない。

(引用ここまで)

 

また、「アメリカ型キリスト教キリスト教だったある日本の教会」という小見出しの項では、アメリカ風のキリスト教以外は想像がつかないだろう、という私の想像に対し、これもビックリ、それこそアメリカらしいキリスト教の捉え方をしているのではとのご指摘である。

 

(以下引用)

これは、まさにアメリカ人なのだ。前にも書いたが、アメリカに生まれたからキリスト教徒だと、いけしゃあしゃあと言ってのけるキリスト教徒の精神性とキリスト教理解である。要するに福音派しか知らず、「福音派めっちゃ最高!」ならまだしも、「自分たちの教会マジ最高!!Yeah!!!」という感じなのだろう。まぁ、それはそれで幸せなんだろうけど、あるミーちゃんはーちゃんの友人がいった「伝統教派が持つ、どんな不幸な状況にも耐えうるだけの強度が不足している」ということにならなければいいんだけど。下で紹介したRacheal Held Evansみたいな動きが出たときに、教派の違う教会との交流がないとすれば、そういう人が日本の伝統教派にたどり着くのは難しいだろうし、仮にそうであっても、勇気を出して見られて、良い教会に合流できたらいいよなぁ、と思う。 

(引用ここまで)

 

ええーっ…

アメリカ人ないしキリスト教の歴史をもつ他の国でも、国籍=宗教とか、人種=宗教といったように単純に捉える人がいるのは知っていたが、日本の場合、クリスチャンは明らかにマイノリティだし、この論法は日本人のクリスチャン、それも一世には当てはまらないのは明らかなのだが、この論法自体を輸入してしまっているのかも?!と気付き、びっくりした。

 

私はマクグラス氏の本は読んでないけど、「1950年代から70年代のアメリカのキリスト教を2020年のポストモダン社会の日本で再現する」

とのミーちゃんはーちゃん様の表現に苦笑した。

それは有り得そうな気がする。

 

私は結局、ミーちゃんはーちゃん様がご紹介のRachel Held Evansさん(説明しか見ていないがおらず、まだ中身を読んでいないが)みたいにそこを出て、も何か信仰や教会に疑問を感じて再検討するような状況に置かれたのだろうか。とにかく私は自分の信仰とはなにか、教会とは何ぞやなどと考え、聖霊派とは異なる伝統的な教会にお邪魔するようになった。それがきっかけで、ブログを始めるようになった。

 

教会の先行きという点で共通の難しさだと感じるのは、私の記事で記述した「昔は若い人ばかりだった教会」だけでなく、ほかの教会でも、少数の教職者しか「ポストモダン」を意識していないように見えることである。私も含め、多くの人は、今は近代のはずなのに時代感覚がなにかぼやけている、と感じ、近代に磨きをかける方法でしか「ぼやけ」を払拭する方法を知らない。それで空回りする状態になっている気がする。たとえば最近お邪魔している教会でも、信徒の意識はマックス・ウェーバープロテスタントの職業倫理(古い!)をそのままプロテスタント信徒の生活のフォーマットだと考えている人に出会う。社会生活のうえで、その職業観や個人観が信仰と合致している(ことになっている)。しかし私が思うに、それは産業革命以降の時代限定的な社会変化であって、それが普遍なのではない。それをプロテスタントの信仰の普遍的成立条件として捉えてしまうと、近代に拘泥する結果になってしまう。ポストモダンに生きる信仰を意識することで何が建設的に立ち上がるのか、信徒と教職の対話があるとよいのにな、と最近思っている。

 

再度、ミーちゃんはーちゃん様、取り上げてコメントをいただき、勉強になりました。有難うございました。