Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

クリスチャンが行うのが最重要という考え方と専門性軽視


私がずっと通っていた聖霊派の教会は、比較的主婦が多かった。

職業的な専門性をもって家庭の外で働く人が、どちらかというと少なかった。男性でも、働いていても会社内労働市場にいて、メンバーシップ型の働き方をしている人がほとんど。つまり技術者とかじゃなく、自分の組織というものを専門にしているということか。


その中で、複数の独身女性が、特定の分野での専門的な仕事をしていた。子どもが対象の社会福祉など。


で、その教会で10年以上前のことなのだが、とある教会員の福祉を助けたいという外国人女性がいた。しかし彼女は、福祉制度も日本語も知らなかった。

そんなとき、教会内に福祉に明るい人がいるというのに、その人には尋ねない。牧師も同様。

その外国人信徒にとって、「クリスチャンである自分が行う」ということが最優先になっていたんじゃないか、という印象を持った。


…というのはあくまでも一例である。

ずっと、何事もそんなかんじ。

教会内で、そして非キリスト者の知恵や経験には目を向けずにやる。もし参照するなら、「クリスチャンの」本、音楽、etc。


C.S.ルイスナルニア国物語でさえ「◯◯にやられてる」とか、世界の創造の最初の地は現在のアメリカ合衆国だったことが「科学的に証明された」といった合意が婦人会にあるらしく、まあクリスチャン以外を相当敵対視してるんだな。


その教会は今でもよく「賜物を用いて神に仕えましょう」と言って、リック・ウォレンの本などを引き合いに出すのだが、

コツコツ積み上げてきた専門的な経験というものを、この世で得た知識や知恵と思うようで、そういう職業的専門性は、度外視されるみたいだ。

別の言い方をするなら、その教会は、賜物とは努力や経験なしで降ってきた生まれつきの性質みたいなものと捉えているようだった。


まあ、誰にでも向き・不向きはあるだろう。

しかし、世の中で、仕事で一歩一歩進んでいるときも、クリスチャンは神様と歩んでいるんだけどなあ。

それを「俗世のこと」と切り捨て、いわゆる教会活動だけをカウントし、クリスチャンがやってるもの(音楽とか執筆とか芸術作品制作とか)は良くても、ノンクリスチャンがやってるものはダメだ、って話はいやになるほど聞く。


だけど、いわゆる教会活動に賜物を生かすという話をよくよく聞いてみると、ちょっとレベルがひどくないかい?と思ったりする。絵とか、音楽とか。賜物があるからやるのだ、というけど、じゃあ絵や音楽にどれだけ親しんでいるかというと、知識も経験も皆無ということが多い。この世のものは参考にしないのだと言う。じゃあクリスチャンで同様の活動をしてる人の作品から勉強しているかと言うと、それもナシ。

それなのに、教会スタッフとしてそれをやって食って行く、みたいな話をし始める人も。

賜物って言葉を使ってるけど、要は、自分はこれがやりたいから小遣いくれって話だよね、と思った。


さらに私の賜物なるものにもズルズルと言及があり、噂とほのめかしが続いた。おもに婦人たちがいうには、私の賜物は教え学ぶ賜物だ、神様から頂いた賜物だからいくらやっても疲れずいつも喜びに溢れ上手く行くのだ、と言う。


ハァ?

好きでやってるとはいえ、ヘトヘトだし、はっきり言って努力してるんですけど。努力しないでも手に入るみたいに言ってほしくないんですけど。理不尽や辛いこともあるし、限界があるから体を壊してるんですけど。


賜物神話は、こうして成功繁栄のご利益のように考えられているらしい。


万人祭司だから、みんな同質で能力にも違いがないという前提で、専門性を否定するのかな?誰にでも「みこころなら」即!インスタントに!素晴らしいものが作れる!みたいな。

なんともお手軽な世界である。