Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「クリスチャンの○○」が好まれる理由を考えてみた その1

 

 「クリスチャンの○○」の、○○の中には、本とか、映画、音楽、学校、施設、etc.いろいろ入る。

以前、教会が教会員のおしごとの経験や経歴を活用しない、みたいな話を書いた。

今日はその続編。

 

私としては、世の中にはたくさんの専門性があり、それを身につけた教会員の知恵を借りるのは良いことだと思うのだが、

「教会は会社ではない」

「この世の知恵」

などと否定的な人にたくさん会った。

でも教会員だってこの世の企業や団体などで働き、この世の人が計算して設計し、汗水垂らして建築現場の仕事をして建てた家に住み、バスの運転手だってこの世の人なのだがなあ。

「この世の」と言って切り捨てる境界線はどこにあるのだろう。

 

(ちなみに、この傾向に陥り専門家や詳しい人と連携してものごとに当たるのが苦手、もしくは当たらない、というのは、日本の組織の特徴なのかもしれないという気もする。自分たちのウチでものごとを行う縦割り型というか。)

 

この「ワレワレの知恵」対「この世の知恵」という対立を、「クリスチャンの○○」対「ノンクリスチャンの○○」という表現に置き換えた場合、こういう区分でものごとを見るのは、私が以前通っていた教会だけではないようだ。

そして対立させるだけでなく、明らかに優先度がちがう。

「クリスチャンの○○」>「ノンクリスチャンの○○」というふうに。

その理由を考えてみた。

 

① 「クリスチャンの○○」のほうが霊的: 正しい・教育的指標としてのクリスチャン

 

まあ(信じない人から信じる人へと変化した者から見るととくに)、クリスチャンはノンクリスチャンと比べると神を知っており、神に従っているという点が異なるので、

ゆえにクリスチャンの映画や本などなどは霊的に安全で教育的であり、ノンクリスチャンの映画や本などなどは危険なのだ、という考え方。よくそういう話は聞く。

ハリーポッターは危険といったよく聞く批判もあるし、さらに「クリスチャンであっても神学に汚染されているリベラル」とか、「この世との境界線上」にあるクリスチャンもいるらしい。

 

しかし正直なところ、信仰的なクリスチャンが作ったという、あまりにもひどすぎるイラストや作品や企画書やプレゼンテーションその他もろもろを目にしてくると、

使った時間も巻き込んだ人の労力も、紙も絵の具も、クリスチャンだという理由で全部大目に見てくれると思うあたりが、情けないと感じることが多々ある。それでも霊的に正しいのか。信仰のある人なら「常に」正しく教育的で「神を伝える道具」を作れるのか。そうか。

 

つづく