Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「公同の教会」以前に考えたことのメモ

 

再び、前に通っていた聖霊派の小さな教会では聞いたことのなかったフレーズから考える。

 

最近お邪魔するようになった伝統的な教会では、使徒信条を唱える。

「…聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」

 

「教会」ではなく「公同の教会」となっているが、公同とはどういう意味だろう。

 

その教団の歴史的背景を考えて、アウクスブルク信仰告白における共同を意味するのかな、などとこの数週間考えて、この下書きをメモに保存しっぱなしだった。

そしたら、ミーちゃんはーちゃん様のブログ経由で読ませていただくようになった、山崎ランサム様のブログの最新記事が、ズバリ公同の意味を扱っており、なんてタイムリーなんだ!とビックリした。

鏡を通して ―Through a Glass― | For now we see through a glass, darkly; but then face to face. . . (1 Cor 13:12)

 

ランサム山崎様は英語の聖書を引いて、公同が小文字の「catholic」すなわち「普遍」と表現されている点から、われわれは自分たちだけが正統であると考えるのでなく、「…教団や教派の違う兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つ…」志向の大切さをご指摘である。

 

ちなみに「公同の教会」でググってみたら、なんとWikipediaにも「公同の教会」という項目が立てられている。まあ、いったん主観的な以前の「聖霊派教会での私」を離れて、キリスト教史を「知らないし聞いたこともない」と追い出さず*に考えてみると、これは大きな項目であって当たり前だな。ちょっと調べて見当がつくような問題ではない。新約聖書ギリシャ語、ラテン語ヘブライ語、英語、日本語を当たる必要もあるし、語義が分かっても使用の背景や聖書の解釈、教会の歴史的経緯を背景として適用範囲が異なる、ちょっとやそっとでは歯が立たない問題である。

*「=自主検閲せず」。私は前の教会では、キリスト教に関わる小難しい書物はよくない、特定のお墨付きの本以外は危険だ、などと言われ続けてきた。聖書も字義通りに読む人たちのあいだにいた。だいぶバランスを欠いたものの見方が補強されていると思う。今は自分の忌避に対して意識的になるよう頑張っている。

 

しかしここになぜ引っかかるのかと言うと、やはり個人的に前かよっていた聖霊派の教会とその他の教会の違いに愕然となったからなのだ。とても私的な理由であるが、普遍性以前に、共通性を確認したいと思ってしまうのだ。

 

教会が生きた人間の集団である限り、私の教会に対する理解は常に「集団」を参照する。理想的な教会像というものはあるだろうが、地に足をつけて人間をやっている限り、人間の集団は人間の集団であり、理想像そのものではない。

しかしキリスト者としての私からすると、それでも聖書は共有しているし、イエス・キリストが救い主であり、「キリストをかしらとする教会」という表現に、実体が示唆されているのだと思える。こうした基盤を持つ点が、現在の世俗の学問とは異なるところだと思う。

 

この問題にはさらに、私のほかの疑問も絡んでいる。

それは、公同かどうか以前に、私という一個人と教会というものの関係性についてである。教会に限らず社会集団といったほうが分かりやすいかもしれない。教会の組織や実践方法や成員の生活は、社会文化的制約や影響を必ず受けている。西欧であろうが東アジアであろうが、それらの影響が全く無いなどということは通常ありえない。日本ももちろん、その社会文化の文脈において、もしくは継ぎ接ぎを作り出して、教会を運営している。

 

そのことを忘れて信仰を主体的にもつ個人の集合が教会の実体「である」と考えるのは、非現実的だと思う。スローガンにはなり得るけれど、実際の姿であるとは限らない。

 

以上、切れ切れだが、心しておこうとメモ。