若い人しかいない教会「だった」教会の先行き
このブログで何度も、私が前に通っていた教会について書いてきた。仮にこの教会を「NC」としておこう。
ミーちゃんはーちゃんという方の「若い人しかいない教会で気づいたこと」
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=889
という記事を読んで、NCはいわば、昔は「若い人しかいなかった教会」なのだと気付き、一つの例として書き留めておくことにする。
◇昔は若者ばかりだったNCの特徴
現在若者が少ない点はミーちゃんはーちゃん氏の記事で挙げられた教会とは異なるが、それ以外は共通点が多いと思った。
バンドの演奏でノリノリで「感動に満ちたワーシップ」の教会である。
特徴としては、過去のエントリを見ていただければ分かると思うが、
聖書は各自が繰り返し読めば「霊的に」分かるようになるとし、歴史的文脈を無視して聖書の言葉を取り出して標語のように用いて説教する。
内容は聖書の釈義ではなく、指南的なものである。今思うと、コレを日基の教会や長老派、改革派、メソジストあたりで語るのはあり得ないだろうと思う内容の説教である。
「あなたには神の特別な計画が用意されている」、「神の要請に応える」などの見出しを用いた説教が多い。
神に愛されていることと、神に仕えよとのメッセージが、毎週違う内容で、違う聖書箇所から語られていた。
たまに教会のプログラムとしてリック•ウォレンの本に沿った人生の目的勉強会があった。
また、賜物を知って役立てるための勉強会もあった。
しかし全体的に読み書きするプログラムは少なく、過去数年間、聖書を一緒に開いて読む機会はなかった。
ミーちゃんはーちゃん氏は記事の中で、今後ノリノリ若者教会はどうなるんだろう、と言っておられるが、NCの場合は、30年ほど前に若者であった人々が続けてきて、現在いる若者(30代以下)はほんの数人。みな教会員のお子さんたちである。つまり「若者の教会 その後」の一例かと思う。
◇昔は若者ばかりだったNCが持つ未来への目標
単純に比較はできないのだが、私は通っていてぼんやりと先の見えなさ、積み重ねの厚みのなさを感じていた。何かが違う、と思っていた。
20年も籍(?)を置いていながら、私が行き詰まりを自覚するきっかけとなったのは、牧師が言った「(アメリカの母教会の牧師は)ハーレーダヴィッドソンに乗っていて、かっこいい」という一言だった。
牧師が崇敬の口調でこう言うのを聞いたとき、何かがガタンと音を立てて落ちた気がした。
世代交代が近付く中で、将来のビジョンが語られ始めたときだったので、ショックもひとしおだった。
そのビジョンとは、何百人もの「観衆」が入れる教会堂建設というものだった。
総合施設のスタジアムみたいな教会が人の集まるコミュニティとして機能するという、アメリカのモデルを想定しているようだった。
何か思いいれがあるのか、「アメリカの教会は堅苦しくなくてコーヒーマシーンが置いてある」、「自動販売機も教会の中にある」といった話も繰り返し説教の中に出てきた。
バンドの次は、ハーレーダヴィッドソン乗りか。
それで、中核にいる人たちが何を求めているのか、輪郭が掴めた気がした。
私はこれまで「違和感があっても合わさねば、愛さなければ」と自分の感情を無視し続けてきたのだ、と痛切に感じた。
◇昔は若者だった人たちの特徴
中核にいてNCを立ち上げ、礼拝を守ってきた人たちは、学生運動が終結してから大学生になった世代である。
役員は男性に限定されており、牧師を含め男性たちは、アメリカに対する憧れを強く持ち、バンドはカッコいい!と考えており、ワーシップの中で「オーyeah, Lord!」、「エイメン!」と声を張り上げる。
時間もお金も労力もバンドの音響や設備にかなり使っていて、こだわりがある。
このあたりの「熱さ」は、NCの現在の若者とは温度差があるし、今現在若者で溢れている教会とも感覚が違うだろう。
今60歳に達しないこの男性たちは、問答無用でアメリカを世界一だと思ってきた人たちである。
そして彼らの息子や娘たちとは違い、働けば報われる経済的一億総中流の実現を経験してきた。今の20代より趣味にかけるお金がある。
そして家事や育児も専業主婦に任せっきりで趣味に打ち込める。趣味は男性の特権となっている。
◇彼らが希求するものを考えてみた
彼らは今、教会員が一丸となって取り組める目標が欲しいのだろう。
しかし時代は彼らの経験した高度経済成長期とは違う。
ノンポリがこの教会の特徴で、社会問題にはノータッチを貫いているから、現実の社会的状況は問題外なのかもしれない。
私が今振り返ると、NCは結局、アメリカに追いつき追い越せと走るなかで得た、物質的豊かさの象徴の獲得の近辺を今もなお漂っているのだと思う。
一生懸命、どんな風に認識しているんだろうと私なりに想像してみた。
彼ら(男性に限る)は趣味(=好み)を接着剤にしてクリスチャンの人間関係を作り、その中で互いに学んだりしていたんだろう。つまり、趣味が合うかどうかが、集団としての区切り方なのだ。
その共通項である趣味(=好み)は、礼拝だけでなくライフスタイル(物質的消費も含め)をたぶん志向している。彼らが求めるのは、「アメリカンスタイル」の実現なのだと思う。実際にはアメリカと言えども広大で、大雑把に言っても東と西では大分違う。彼らの中にはアメリカに長期滞在した人はいない。しかしバンド、音響機器、コーヒー、くだけた雰囲気、ハーレーダヴィッドソンが象徴する何がしかのアメリカらしさの実現を、彼らは求めている。
だからと言って、キリスト教をその実現の手段に矮小しているわけではない。
彼らはたぶん、「アメリカ風」とキリスト教を切り離せないものとして認識している。
逆に言えば、アメリカ風でないキリスト教とはどんなものか、聞かれても困ってしまうだろう。
本や映画などでヨーロッパのキリスト教を知ることもできるが、彼らはキリスト教書の大半は危険だと言って遠ざけており、読むのは系列教会からのお墨付きの本だけである。観るのはもっぱらアメリカ映画で、国内ではもちろん、教派の違う教会との交流は無い。
そんなわけで、ほかのノリノリ教会にも当てはまるか分からないが、人口の少ないクリスチャンの中で、集団の区切りの根底に「アメリカのくだけた教会」志向があったのだな、と知った次第。
この「アメリカのくだけた教会」が日本の少子高齢化にどう対応してゆくのか、それは分からない。
「クリスチャンの○○」が好まれる理由を考えてみた その2
「ワレワレの知恵」対「この世の知恵」という対立を、「クリスチャンの○○」対「ノンクリスチャンの○○」という表現に置き換えてみると、
「クリスチャンの○○」>「ノンクリスチャンの○○」という優先度の差が見えてくる。
というわけで、その理由を考えてみた。
前回はその一つ目の理由として、「クリスチャン」=「霊的に正しく教育的」という指標 として機能しているのではないだろうかと考えてみた。
今日はその二つ目。
いつものように、自分の個人的な例から考えをズラズラ並べていく、毒舌な文章である。
② 「クリスチャンの○○」のほうが優れている: 中身を無視してクリスチャンという肩書きで評価する
これは、①の論法と併せて考えると、なんとなく理由が想像できる。
クリスチャンは神と共におり、そうでない人と比べ霊的に一段上なのだ、その一段上の人がすることは、何をするにしても一段上なのだ、クリスチャンの絵画のほうがノンクリスチャンの絵画よりも霊的に正しく教育的なだけではなく、その人は神とともに歩んでいるため、その人の能力はノンクリスチャンよりも霊的で優れているのだ、ゆえにクリスチャンの○○のほうがノンクリスチャンの○○より優れているのだ、という理屈で進む人は結構いるんじゃないだろうか。
でもこの場合、途中で主語が入れ替わっているんだよな。
神を知っている人→神のゆえに優れた能力のある人 に替わっている。
そして神に与えられた才能を使って○○を行っている、ということになっている。
地味なことに関しては、あまりこういう「神からの賜物を発揮」とか言う話は聞かない。どちらかというと、芸術やスポーツなど、一般的に「才能」が問われ、目にみえやすい分野で、こういう話になりやすい。
つまり一種の、クリスチャンなら成功する・繁栄するという言説なのだと思う。
…ではクリスチャンの絵画は常に正しい霊感に満たされ、優れた作品となっており、観る者に霊感を与え祝福するのか、というと、
そういう保証はないと思いますよ(キリッ)。
そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるだろう。
クリスチャンならばそのしごとに「霊的な作用が現れるはず」という勘違いが起きるのは、
・ クリスチャンという「人種」の行動や経験を通じて、神の作用が何らかの形で現れ、可視化すると思われている。それゆえ観察が可能なものについては、「神のはたらきが見えるんじゃないか」と期待されてしまう(期待する主体はクリスチャンであることがほとんどである。つまり自分の期待の成就を他人に願っている。これが信仰という名でよばれる)。
・ 比較対象が「ノンクリスチャン」になっているため、表現力や研鑽の度合いなどを論じる以前に、「クリスチャンだから(何でもいいんだ)」になってしまっている 。
この二点によって勘違いされているのだろう。
さらに、神を知っていれば素晴らしい能力や才能が与えられて、素晴らしいものがつくれる、という劇的なシナリオ。願えば(一瞬にして才能が)与えられるはずという、極端な思考。
この場合、「一瞬にして」というのが重要みたいだ。なぜなら、人の努力や積み重ねは評価されないからだ。その人特有の性質とか、長期的視野で見るようなことには、人の努力と肉の思いが混じる可能性が高いし、神の介在が見えづらいがゆえに、評価されない。
しかし「一瞬にして」才能や能力が与えられ、燃えるように私はキャンバスに向かったのです、みたいなドラマチックで奇跡の匂いの強い話だと、霊的!すばらしい!ということで、そうして出来上がった作品は素晴らしい、神様の働きだ、という話になるのであった。
しごとに限らず、クリスチャンになった経緯や礼拝など、いたるところに、ドラマチック至上主義、軌跡や感動の可視化バンザイみたいなノリがある。
この根底には一部、アメリカ式の知性への反発と似たものがあるように思う。根本的に人の能力は平等で、平信徒も洗礼を受けたら即伝道要員!語って教えるのなんて誰にでもできる!学歴なんて敵だ!みたいな空気は、私が前に通ってた教会も普通にあった。私もエリート主義は嫌いだが、根本的に人がみな能力的に平等という前提に固執し、神学を否定しつつも学歴を権威のよりどころとするアメリカの反知性主義は、特殊な時代の特殊な場所の事例だし、ひんまがっていると思う。「普遍」のモデルとしては不適切。しかし戦後の福音派や聖霊派はモロ、この志向に影響されているのだろうなあ。
それでもアメリカの場合、能力は評価されるだろうからまだいい。日本など下手をすると出る杭は打たれるので、反知性的傾向と、出る杭を打つ傾向が重なった場合、本当に悲惨である。
誤解されないよう言っておくが、私は学歴偏重もエリート主義も幼児英才教育も人種主義も嫌いだ。しかし、神様が造られた人間は、統一仕様の大量生産品ではない。人それぞれ個性がある。異なる経験を経て、ほかの人には分からないような悩みや苦しみをもち、それらからの解放を経験することもあるだろう。
大量生産志向のクリスチャンたちは人を機械のように思うらしく、「クリスチャンになった→神の働きを人に顕した(神々しい光景)→人が救われる」という図式を想定している。神々しい光景とは、見えやすく、分かりやすいセッティングで、感動やドラマをともなうというものである。分かりにくく思索的であってはいけない。なぜならそれは大衆ウケしないからである(牧師夫妻から本当にそういわれたことがある)。どうも、分かりやすいことが「善」で、分かりづらいことが「悪」みたいに誤解されていると思う。それって、「俺にわかるようにしろ、でないと認めない」みたいな話だよね?つまり「俺様が理解できることが重要」であり、理解できない俺様は悪くない、ということだな。
私は、分かりづらいものの中にも、善いものがあると思う。それらを否定して、クリスチャンの○○だから価値がある、ノンクリスチャンの○○には価値がない、と言う人は、実のところ、いったい何を見ているんだろう。何をそこから学び、受け取り、栄養にしているんだろう。その絵との対話や思索があるのか?
大学での研究も、木工職人も、介護も、経営者も、みな積み重ねの上に今がある。
研究とか経営とか言ったとたんに「高慢の罪」とか言い出す人も教会にはいる(世の中でもいる)。
しかしそれって、結局人を肩書きで見てるんだよね。その人が何を見てきて、何を経験し、どうやって今に至るかを知ろうとはしていないんだよね。
人には積み重ねというものがあり、それは貴重だと私は思う。
そういうものをすっとばして、人は皆平等であるがゆえに積み重ねや専門性に価値はない、価値は唯一「神を信じるクリスチャンであること」のみにある、という論理は、ほんとうによく耳にする。
だから人を知る努力をせず、ただ「神を信じろ」と不特定多数の人に伝道することだけが良しとされるんだろうな。
私はそれを、とても貧しい態度だと思う。
神様は頭ごなしに「信じろ」と強制する方ではない。
イエス・キリストは神であられるのに人間としてこの地に来て、人間が経験する最悪とは何かを、身をもって体験されている。その方が人の友となられた。それは頭ごなしの顔の見えない関係ではない。イエスなら何とおっしゃるだろうか。
「クリスチャンの○○」が好まれる理由を考えてみた その1
「クリスチャンの○○」の、○○の中には、本とか、映画、音楽、学校、施設、etc.いろいろ入る。
以前、教会が教会員のおしごとの経験や経歴を活用しない、みたいな話を書いた。
今日はその続編。
私としては、世の中にはたくさんの専門性があり、それを身につけた教会員の知恵を借りるのは良いことだと思うのだが、
「教会は会社ではない」
「この世の知恵」
などと否定的な人にたくさん会った。
でも教会員だってこの世の企業や団体などで働き、この世の人が計算して設計し、汗水垂らして建築現場の仕事をして建てた家に住み、バスの運転手だってこの世の人なのだがなあ。
「この世の」と言って切り捨てる境界線はどこにあるのだろう。
(ちなみに、この傾向に陥り専門家や詳しい人と連携してものごとに当たるのが苦手、もしくは当たらない、というのは、日本の組織の特徴なのかもしれないという気もする。自分たちのウチでものごとを行う縦割り型というか。)
この「ワレワレの知恵」対「この世の知恵」という対立を、「クリスチャンの○○」対「ノンクリスチャンの○○」という表現に置き換えた場合、こういう区分でものごとを見るのは、私が以前通っていた教会だけではないようだ。
そして対立させるだけでなく、明らかに優先度がちがう。
「クリスチャンの○○」>「ノンクリスチャンの○○」というふうに。
その理由を考えてみた。
① 「クリスチャンの○○」のほうが霊的: 正しい・教育的指標としてのクリスチャン
まあ(信じない人から信じる人へと変化した者から見るととくに)、クリスチャンはノンクリスチャンと比べると神を知っており、神に従っているという点が異なるので、
ゆえにクリスチャンの映画や本などなどは霊的に安全で教育的であり、ノンクリスチャンの映画や本などなどは危険なのだ、という考え方。よくそういう話は聞く。
ハリーポッターは危険といったよく聞く批判もあるし、さらに「クリスチャンであっても神学に汚染されているリベラル」とか、「この世との境界線上」にあるクリスチャンもいるらしい。
しかし正直なところ、信仰的なクリスチャンが作ったという、あまりにもひどすぎるイラストや作品や企画書やプレゼンテーションその他もろもろを目にしてくると、
使った時間も巻き込んだ人の労力も、紙も絵の具も、クリスチャンだという理由で全部大目に見てくれると思うあたりが、情けないと感じることが多々ある。それでも霊的に正しいのか。信仰のある人なら「常に」正しく教育的で「神を伝える道具」を作れるのか。そうか。
つづく
チャーチホッパーは本当にチャーチホッパーなのかな
教会を移ることと関連して、前から気になっていたことを一つ。
人が「チャーチホッパー」と言う時、ネガティブな意味で言っていることがほとんどである。
じゃあ逆に、好ましい教会員とはどんな人のことを想定しているのだろう、と、嫌味ではなく、本当に不思議で、知りたいと思う。
私が今までに聞いた限りでは、人がチャーチホッパーとか、教会ジプシーなどという言葉で人を指すとき、「ひたすら自分の都合に良い教会を追求して教会を渡り歩く人」という定義みたいだ。教会を移るんじゃなくて、渡り歩くというのが味噌なんだろうか。
話には聞くが、私はまだ、実際にそういう人には会ったことがない。
むしろ、なんらかの理由で別の教会を探そうと見て歩いている途中らしき人が、そのような噂を立てられる光景には出会ったことがある。
一回や二回来たくらいじゃ、探してるだけなのか、ホッパーなのかなんて、わからないと思う。
教会に家族で通う場合と単身で通う場合の違いを考えてみた
私が前に通っていた教会でのことを中心に考えてみた。
そこは、とある東京の教会の枝教会として、郊外で始まったところだ。
東京にいた若い3家族が、子どもも生まれたことだし、郊外にマイホームを持とうという人生の段階に来た。東京の教会で弟子みたいにしてた牧師が、じゃあ枝教会を引越し先に作ろうということになって、教会が始まったようだ。
そうこうしているうちに人も増えていった。
私が通っていたときは、その3家族に加え、ほかにも20年以上通い続けている一家が2組いた。
それにプラス牧師一家。
夫が稼ぎ、妻は専業主婦という高度経済成長期の昭和な郊外のパターンである。
その子どもたちはすでに成人した。
ある一家の子どもたちはクリスマスにしか顔を見せないが揃ってノンクリスチャンと結婚して家庭を持っている。
それ以外の古くからいる家族の子どもたちは、その地域で職を得ており、教会の常連メンバーとなっているが、揃って未婚である。
私と年齢が近いのは、この人たちであった。
ほかの教会員は、結婚後にクリスチャンになった主婦が多かった。
成人後に郊外を出てゆく単身の若年が多いからか、昔と比べて独身のいわゆる結婚適齢期の教会員がほとんど存在しない状態となった。
…とここまでは前置き。
家族と一緒に教会に来ておらず、単身の未婚で、いわば一人で来ている、結婚適齢期ぐらいの人って、私と、もう一人だけだった。
何となく、家族と一緒に来ている人は、色々な点で守られているし、まあ縛りもあるんだろうな、と感じた。
家族単位で来ているか、一人で来ているかで、教会生活は相当違ってくると思う。
たとえば、平日の昼間にある婦人会とか、男性だけが参加する「役員会」的な話し合いとか、子ども向け教会学校とか、教会活動についての情報は、家族で来ている人たちは総合的に知っている。情報量がダントツに多い。
それらへの参加資格は通常、特定のライフステージを想定している。標準的な夫婦と未婚の子どもという家庭生活に合致する活動になっている。
当たり前と思われるかもしれないし、私はそれがイカンと言いたいわけではない。しかし、家族で来てる場合と、そうでない場合、見える教会の風景はかなり違うのでは、と言いたいのだ。
たとえば、婦人会でどんなDVDを見てどんな話をしているかなんて知らなかったし。
独身者に対する対応も違うと感じた。
一人で来ている独身者には、結婚しろとか、教会内の人を勧めてみたり、時にはあからさまに「結婚要員」扱いしたりする人も少なくない。
これに対し家族で来ている人の子どもたちには、親への遠慮や、関係の束の大きさゆえのリスクを考えてなのか、古くから知っているので今さら感があるのか、まあ当たらず触らずが貫かれている。
単純に、一人でぽつんと来てる人には口を出しやすい、ということもあるだろう。
あまりこういった違いは取り上げられないな、と思って、書いてみた。
別の教会で気づいたこと: 実は福音書を軽く見ていた?
自分の今までの信仰って何なんだろな、と思いながら、前の教会には行かず、近所の教会に行っている。
考えさせられることがたくさんある。
どの教会も完璧ではないし、日曜の礼拝以外にも本や集会やセミナーやいろんな形で自分なりに理解を深めてゆくものなのだろうが、
私の場合は日曜の礼拝メッセージが大きな比重を占めていたので、今更ながら自分の理解の偏りに向き合っている。
というのは前置き。
気づいたことを書き出してみる。
1 四福音書が「過去の当時の記録」にとどまっていた
前に行っていた聖霊派の教会では、クリスチャン=使徒(弟子)という位置づけだったみたいだ。
イエスが救いのわざを完了したあとの時代で、使徒として為すべきことは宣教命令に従うこと、という理解で、伝道の働きが強調されていた。その他の社会生活については、福音書以外の書簡を参照して、家族を大切にしましょう、愛をもちましょう、といった話は出るのだが、基本的に伝道や祈り以外は「問題外」みたいな扱いだった。
あなたはそのままで愛されている、行いでは人は救われない、と付け足しのように言うけれど、祈りや伝道って、行いだからな。今後のあなたの行いを期待します、ということだな。
人として地に生きたイエスについての理解を深めることはあまりなかった。
イエスは今も私たちと共におられるとか、友となられた、とさらっと触れることはあるのだが、そこについての説明がほとんど無く、礼拝メッセージはその後の使徒の働きや黙示に重点を置いていた気がする。
それに対し、今行っている近所の教会は、コミュニティセンター化の側面が強いような気もする。二代目以降の信徒がけっこう多いせいか。社会生活を送る人の人生の一部としての信仰がキリスト教、みたいな見方をしているようだ。教会は祈る場所、信仰の集まり、という意識が弱いとも言えるし、社会生活なしでは誰も生きられないという現実を踏まえているようにも見える。まだ数回しか行ってないから、印象だけど。
つまり、私が前に通っていた聖霊派の教会は、意識はしてないだろうけど、使徒という役割を追求する目的特化型だった。理屈としては「クリスチャンになったら伝道と祈りが人生」な「はず」なので、人生の一部分としてではなく、この部分を人生の全体にしてしまえ、という論法になる。だからワーシップソングで、私のすべてを捧げます、とか歌うわけだ。
それに対し、私が最近行っている古めの教会は、人の人生の一部分として信仰があり、その部分がどんなものかは、洗礼を受けるという最低限の基準をクリアしてればOKなので、人の存在そのものが目的という共同体という意味では理にかなっている。しかし信仰は社会における存在の絶対条件ではないので、信仰の部分が社会的な人格全体からすると薄まってしまってもしょうがないという状態なんだろう。
しかしイエスと「共に、今」生きる、という視点は、こちらのほうが強い気がする。それは使徒としての目に見える「わざ」に頼らないにもかかわらず、クリスチャンとして人生を送るからだろうか。「生きる」こと自体が、人生の一部分である信仰がジワジワ人のうちに他者のあいだに広がる希望でもあるからだろうか。
2 「選ばれた民」へと異邦人を変換する装置としてのイエス?
前に通っていた聖霊派の教会では、福音書が「かくかくしかじか、こういうことがありました。で、あなたは信じますか、信じませんか」というフィルターになっていた。
信じますと答えると、はい、それではあなたは弟子となりました、以後新約聖書の書簡以降を参照、となり、書簡で書かれたことは律法のように、守るべき規則として互いを評価する際に使われる。
また、信じますと答えたら、そのことによって「選ばれた民」へと変えられるため、一気に旧約のユダヤ人に分類され、旧約が「直接」自分たちの神との物語に変わってしまう。
私が思うに、旧約のはなしはユダヤ人と神との関係や、イエスが来られて贖いが成し遂げられたことを説明するものだけれど、私たちがユダヤ人になったわけじゃあないと思うんですが。
こうした偏りに気づいたのは、やはり、福音書が限定的に参照されていたと気付いたからだ。
最近行っている近所の教会では、たまたまかもしれないが、イエスと共に、地上で「他者と共に」生きることそれ自体にフォーカスしているように思える。
私たちは人間で、罪人である。イエスによる贖いにより、神との和解を得たが、過ちをおかし続ける。それなのにイエスは私と共にいて友となって下さる。
そのことが繰り返し礼拝で語られている。
これを、現在の自分の歩みに当てはめて、
地に足をつけて、他者と共に歩みたいという自分の社会観は、あながち間違いではなかった、
と気づかされた、
どうも前の教会ではこの点について、信じたわれわれは「すでに」選ばれた民となったので他者に「優越」する、真実を知っているがゆえに、哀れで穢れた「世の人々」に伝道するのが愛というものだ、という発展のさせ方を取っている人が目についた。
神であるのに人として来られたイエス、罪人の友となられたイエス、という視点が、スッポリ抜け落ちている。
神が愛される世という視点も抜け落ちていて、世は敵対すべき対象になってしまっているのではないだろうか。
私はイエスの救いを受けたとはいえ、イエスのように愛のまなざしで人や世を見ているだろうか?
旧約と新約聖書を律法がわりにして教会にとじこもるのがクリスチャンだと勘違いしていなかっただろうか?
成長はこれからだが、今までちゃんと考えずに来てしまったことの一つだ。
プロテスタントと一口に言うけれど その2
最近行っている教会で、前に通っていた教会では聞かなかったフレーズに、頻繁に出会う。
「神よ、憐れんでください」
20年間、そんな言葉を祈りの中に聞いたことはなかった。
クラシックな表現ながら私には新鮮で、なぜ私たちに憐れみが必要なのか、なぜそう祈るのか、考えさせられた。
なせなら、神様の憐れみが必要だから。
自分には神様の憐れみが必要だと認めることで、ようやく神との関係の一歩を踏み出せるから。
常に、その関係から迷い出るような性質の人間だから。
しかし神は人を憐れむがゆえにイエス•キリストを救いとして下さったから。
神学的な裏付けはないけれど、この一言は、地上で歩む人間が言い表すことのできる、精一杯の告白なのではないだろうか。