Bluebelleのブログ

一キリスト者の雑感と日記。独り言が多く、更新は不定期です

「公同の教会」以前に考えたことのメモ

 

再び、前に通っていた聖霊派の小さな教会では聞いたことのなかったフレーズから考える。

 

最近お邪魔するようになった伝統的な教会では、使徒信条を唱える。

「…聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」

 

「教会」ではなく「公同の教会」となっているが、公同とはどういう意味だろう。

 

その教団の歴史的背景を考えて、アウクスブルク信仰告白における共同を意味するのかな、などとこの数週間考えて、この下書きをメモに保存しっぱなしだった。

そしたら、ミーちゃんはーちゃん様のブログ経由で読ませていただくようになった、山崎ランサム様のブログの最新記事が、ズバリ公同の意味を扱っており、なんてタイムリーなんだ!とビックリした。

鏡を通して ―Through a Glass― | For now we see through a glass, darkly; but then face to face. . . (1 Cor 13:12)

 

ランサム山崎様は英語の聖書を引いて、公同が小文字の「catholic」すなわち「普遍」と表現されている点から、われわれは自分たちだけが正統であると考えるのでなく、「…教団や教派の違う兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つ…」志向の大切さをご指摘である。

 

ちなみに「公同の教会」でググってみたら、なんとWikipediaにも「公同の教会」という項目が立てられている。まあ、いったん主観的な以前の「聖霊派教会での私」を離れて、キリスト教史を「知らないし聞いたこともない」と追い出さず*に考えてみると、これは大きな項目であって当たり前だな。ちょっと調べて見当がつくような問題ではない。新約聖書ギリシャ語、ラテン語ヘブライ語、英語、日本語を当たる必要もあるし、語義が分かっても使用の背景や聖書の解釈、教会の歴史的経緯を背景として適用範囲が異なる、ちょっとやそっとでは歯が立たない問題である。

*「=自主検閲せず」。私は前の教会では、キリスト教に関わる小難しい書物はよくない、特定のお墨付きの本以外は危険だ、などと言われ続けてきた。聖書も字義通りに読む人たちのあいだにいた。だいぶバランスを欠いたものの見方が補強されていると思う。今は自分の忌避に対して意識的になるよう頑張っている。

 

しかしここになぜ引っかかるのかと言うと、やはり個人的に前かよっていた聖霊派の教会とその他の教会の違いに愕然となったからなのだ。とても私的な理由であるが、普遍性以前に、共通性を確認したいと思ってしまうのだ。

 

教会が生きた人間の集団である限り、私の教会に対する理解は常に「集団」を参照する。理想的な教会像というものはあるだろうが、地に足をつけて人間をやっている限り、人間の集団は人間の集団であり、理想像そのものではない。

しかしキリスト者としての私からすると、それでも聖書は共有しているし、イエス・キリストが救い主であり、「キリストをかしらとする教会」という表現に、実体が示唆されているのだと思える。こうした基盤を持つ点が、現在の世俗の学問とは異なるところだと思う。

 

この問題にはさらに、私のほかの疑問も絡んでいる。

それは、公同かどうか以前に、私という一個人と教会というものの関係性についてである。教会に限らず社会集団といったほうが分かりやすいかもしれない。教会の組織や実践方法や成員の生活は、社会文化的制約や影響を必ず受けている。西欧であろうが東アジアであろうが、それらの影響が全く無いなどということは通常ありえない。日本ももちろん、その社会文化の文脈において、もしくは継ぎ接ぎを作り出して、教会を運営している。

 

そのことを忘れて信仰を主体的にもつ個人の集合が教会の実体「である」と考えるのは、非現実的だと思う。スローガンにはなり得るけれど、実際の姿であるとは限らない。

 

以上、切れ切れだが、心しておこうとメモ。

 

記事へのアクセスの傾向

ミーちゃんはーちゃん様のブログ 一キリスト者からのメッセージ に取り上げていただいたところ、一日でアクセスが100を超えてびっくりしております。

 

Bluebelleはこのブログでは独白の形式をとっており、元々ひきこもり傾向があるため、アクセス向上には特に力を入れず、淡々と書いていこうと思います。お付き合いくださっている方々にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

 

これまでのアクセスを見ると、「プロテスタントと一口に言うけれど」がずっと一位で(とはいえ実数は少ないですが)、検索ワードに「プロテスタントとは」が使われているようです。

最近のご報告まで。

若い人しかいなかった教会にコメントをいただきました。&先行きの手探りについて

以前このブログでミーちゃんはーちゃん様の記事とURLを参照させていただき、それをきっかけで記事を書きましたとお知らせしたところ、読んで下さり、ご自分のブログにて「若い人しかいなかった教会その後(ケーススタディ)」と題してコメントを下さった。

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=902

 

私の経験に関して、なるほどそうか、と理解する助けとなりました。ミーちゃんはーちゃん様、どうも有難うございます。かなり平坦な記述なのに、親切にお礼を述べて下さって恐縮です。

 

さて、その内容について。やはり私の今までの信仰生活は見直すべきものだったとの確信を新たにした。

 

「形から入るメガチャーチ、エッ」

という見出しからは、ミーちゃんはーちゃん様が驚かれたことが分かる。私は今までやはり、ぼんやりとしていたのだなと思った。結果的にはもうその中にはいないが。情けないことではあるが、未だに「牧師はそう言うんだから逆らったら罰が当たる」と言ってそのまま残っている人もいるので、立ち消えにならない限り、その方向でがんばるのだろう。また、立ち消えになったとしても牧師は、みんな分かってくれない、と何がいけないのか気付かないまま時が過ぎていきそうな気がする。

しかしこうしてミーちゃんはーちゃん様がご説明くださった、アメリカのメガチャーチが成立する背景は、説得力がある内容だ。

(以下引用)

基本、あれができるのも、野外集会以来の会衆者を集めるという伝統があり、チャーチホッパーがやたらとたくさん存在し、1日に教会を2件も3件も、(多くの場合は祝福されることを求めて、ということらしいが)はしごする人たちや、教会にある特定の牧師のグルーピーのような人々が回ってくるからこそできる芸当で、そんなバブルの化身というのか、バブルの化石のような教会堂を持ってしまえば、あとが面倒だし、掃除やメンテナンスコストはバカ高い。カリフォルニアのような乾燥した気候でない限り、日本でそんなものを作った日には、エアコン代とエアコンの電気代がバカにならない。身の丈を知る必要があるような気もするのだが。

(引用ここまで)

 

こんな意見をできる人が教会内にいなかったので、今そのまま「メガチャーチ作らなくちゃいけない」と思ってる人は、どうか、検索でヒットして、目を覚ましてくれればと思う。

 

「アメリカにあこがれた教会と教会員の考現学

との見出しの下には、昔若者ばかりだった現在の教会の先行きの見えなさと手探り状態について、このようにお書きである。

 

(以下引用)

 その意味で、閉塞感が今、若者しかいなかった教会にも漂っているのだろう。若者しかいなかった教会も、他の日本の多くの教会と同じように、目標もなく、経済成長もなく、信者の成長もなく、という閉塞感のキリが漂い始めているのかもしれない。

(引用ここまで)

 

また、「アメリカ型キリスト教キリスト教だったある日本の教会」という小見出しの項では、アメリカ風のキリスト教以外は想像がつかないだろう、という私の想像に対し、これもビックリ、それこそアメリカらしいキリスト教の捉え方をしているのではとのご指摘である。

 

(以下引用)

これは、まさにアメリカ人なのだ。前にも書いたが、アメリカに生まれたからキリスト教徒だと、いけしゃあしゃあと言ってのけるキリスト教徒の精神性とキリスト教理解である。要するに福音派しか知らず、「福音派めっちゃ最高!」ならまだしも、「自分たちの教会マジ最高!!Yeah!!!」という感じなのだろう。まぁ、それはそれで幸せなんだろうけど、あるミーちゃんはーちゃんの友人がいった「伝統教派が持つ、どんな不幸な状況にも耐えうるだけの強度が不足している」ということにならなければいいんだけど。下で紹介したRacheal Held Evansみたいな動きが出たときに、教派の違う教会との交流がないとすれば、そういう人が日本の伝統教派にたどり着くのは難しいだろうし、仮にそうであっても、勇気を出して見られて、良い教会に合流できたらいいよなぁ、と思う。 

(引用ここまで)

 

ええーっ…

アメリカ人ないしキリスト教の歴史をもつ他の国でも、国籍=宗教とか、人種=宗教といったように単純に捉える人がいるのは知っていたが、日本の場合、クリスチャンは明らかにマイノリティだし、この論法は日本人のクリスチャン、それも一世には当てはまらないのは明らかなのだが、この論法自体を輸入してしまっているのかも?!と気付き、びっくりした。

 

私はマクグラス氏の本は読んでないけど、「1950年代から70年代のアメリカのキリスト教を2020年のポストモダン社会の日本で再現する」

とのミーちゃんはーちゃん様の表現に苦笑した。

それは有り得そうな気がする。

 

私は結局、ミーちゃんはーちゃん様がご紹介のRachel Held Evansさん(説明しか見ていないがおらず、まだ中身を読んでいないが)みたいにそこを出て、も何か信仰や教会に疑問を感じて再検討するような状況に置かれたのだろうか。とにかく私は自分の信仰とはなにか、教会とは何ぞやなどと考え、聖霊派とは異なる伝統的な教会にお邪魔するようになった。それがきっかけで、ブログを始めるようになった。

 

教会の先行きという点で共通の難しさだと感じるのは、私の記事で記述した「昔は若い人ばかりだった教会」だけでなく、ほかの教会でも、少数の教職者しか「ポストモダン」を意識していないように見えることである。私も含め、多くの人は、今は近代のはずなのに時代感覚がなにかぼやけている、と感じ、近代に磨きをかける方法でしか「ぼやけ」を払拭する方法を知らない。それで空回りする状態になっている気がする。たとえば最近お邪魔している教会でも、信徒の意識はマックス・ウェーバープロテスタントの職業倫理(古い!)をそのままプロテスタント信徒の生活のフォーマットだと考えている人に出会う。社会生活のうえで、その職業観や個人観が信仰と合致している(ことになっている)。しかし私が思うに、それは産業革命以降の時代限定的な社会変化であって、それが普遍なのではない。それをプロテスタントの信仰の普遍的成立条件として捉えてしまうと、近代に拘泥する結果になってしまう。ポストモダンに生きる信仰を意識することで何が建設的に立ち上がるのか、信徒と教職の対話があるとよいのにな、と最近思っている。

 

再度、ミーちゃんはーちゃん様、取り上げてコメントをいただき、勉強になりました。有難うございました。

知らない教会用語に出会う


二つ前の投稿の、「昔は若い人しかいなかった教会」しか知らなかった というか、積極的に他を知ろうとしなかったせいで、別の教会の礼拝やその他勉強会などで私の知らなかった言葉に出会っているところである。


前の聖霊派の教会では、以下の言葉が使われているのを聞いたことがなかった(知らないのは私だけでほかの人たちは知ってたのかもしれない)。


「福音記者」

ヨハネ、マルコ、マタイ、ルカのことらしい。

ひょっとして前の教会は、記録者と位置づけることはあっても、記者と呼ぶのはためらうかもしれない。


「平和」

新改訳聖書で平安という日本語が使われている箇所を、新共同訳聖書て見ると、平和という語がかわりに使われていることがある。

前の教会では、あなたに平安がありますように、とは言っても、平和がありますように、とは言わなかった。

ほかにも随分訳し方が違うところがあるよ?

こういうことがあるから、ギリシャ語やヘブライ語で何と書かれているかチェックする必要が出てくるんだな。

原語のチェックは理解に必要だと思う。


「受難」

クラシック音楽のタイトルなんかで聞いたことがある言葉だが、定義は知らないし使ったことがない言葉。イエスが十字架に付けられて死なれるまでのことを言うのだろうか?それとも3日後の復活まで?


NCC

「JEA」

そういう全国組織があるのだな…


「教区」

外国だけかと思ってた。


「洗礼盤」

洗礼の水を入れる石の器。当番の人がメンテナンスしていることが分かった。


「ニッキ」

にちき でも、ひもと でもない。

教派ではない。


「おんまえ」

御前 と書く。みまえ と読む場合と、おんまえ と読む場合とがある。

御父 の場合も同様。


ちなみにこれらの言葉を使ったら、前の教会では、浮くこと必至。

書いてあれば意味が分かるけれど、口頭で言われたら一瞬「?」なのであった。






牧師に対するサポート体制がある教会もあるんだな


別の教会に通い、今まで知らなかったこと、気づかなかったことに気づく。


私が最近お邪魔している教会では、教団内の別の牧師がたまに礼拝の説教に来る。教区としての活動などもある。つまり教会間での人のシャッフルが結構ある。

牧師どうしで話し合ったり、役員会が定期的に開かれていたりする。


前の教会ではそんなことがなかったので、協力態勢はどうなっていたのだろう、と考えた次第。

以下、前の教会について。

余計なことかもしれないが、同じような教会もあるかもしれないし、案外重要な事だと思うのだ。


私が前に通っていた教会は、元々はとある日本の教会の枝教会として始まった。親教会の信徒が数家族、別の地域に引っ越すことになり、それならそこに枝教会を、ということになったようだ。

だからその頃の親教会との連絡は続いていただろうと思う。


その後、私は詳しく知らないのだが、私が数年留守しているあいだに、この枝教会は一時活動を停止したのち、海外の某教団の傘下に入り、活動を再開していた。牧師が積極的に働きかけて入ったらしい。


見た感じは前と変わらなかったのだが、新たな教団の方針に沿って学びのプログラムなどが実施された。

といっても、メンバーの半数以上が前と変わらず、新たな教団の下で人がシャッフルされることもほんの僅かだったし、活動があまり無く、どちらかといえばのんきな教会だったせいか、あまり変化は見えなかった。


今一呼吸してから振り返る。様々な

疑問が浮かぶが、その中の一つは、牧師は一人きりで頑張っていたのでは、というものである。色々な点で。


新たに参加した教団の中には、いくつか日本の教会がある。

しかし教団内の別の教会からこの教会にくる人はほとんどいなかった。

その教団の持つ小さな聖書学校から一度、これから牧師になるという学生が実習に来たことがあった。

あと、教会の最初期からいるご家族の長男がその聖書学校で学び終え、副牧師になった。その学校に在学中は、教団内のほかの教会にも出入りしていたようだが、近年はそんなことも無いようだ。


教団内のほかの教会と接触するのは、一年に一度のサマーキャンプくらい。

あと、教団の大元(海外)でのセミナーなどに数年に一度、牧師が出席していた。


誰が役員なのかは公言されていないが、たまに古いメンバーが「役員からお知らせ」したりするので、いちおう役員という肩書きは存在していることが分かった。

しかし役員会というものは開かれていなかった。


そうこうするうちに、私はその教会を離れた。

その過程で、牧師は教会の先行きや家族の今後など、いろいろと悩んでいるようだと知った。


しかし私はそれまで、そんな問題があるなんて知らなかった。牧師が突然「献身が最も優れた道」などと教会員を説得し始めたのは、一人で悩んだ末、突然結論に飛躍していたんだな、と今は話の筋が見えるけど。


しかし、一人で頑張り続けている牧師はたくさんいるのだろうなあ。元々、人に助けを求めるのが苦手な人もいるし、この教会に限らず、単立の教会の牧師だったり、神学校での同窓がいないなど、牧師がケアされる環境がないこともあるだろう。

そういう牧師へのカウンセリングのようなものがあれば良いのだろうな、と思った次第。






若い人しかいない教会「だった」教会の先行き


このブログで何度も、私が前に通っていた教会について書いてきた。仮にこの教会を「NC」としておこう。


ミーちゃんはーちゃんという方の「若い人しかいない教会で気づいたこと」

http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=889


という記事を読んで、NCはいわば、昔は「若い人しかいなかった教会」なのだと気付き、一つの例として書き留めておくことにする。


◇昔は若者ばかりだったNCの特徴


現在若者が少ない点はミーちゃんはーちゃん氏の記事で挙げられた教会とは異なるが、それ以外は共通点が多いと思った。

バンドの演奏でノリノリで「感動に満ちたワーシップ」の教会である。


特徴としては、過去のエントリを見ていただければ分かると思うが、

聖書は各自が繰り返し読めば「霊的に」分かるようになるとし、歴史的文脈を無視して聖書の言葉を取り出して標語のように用いて説教する。

内容は聖書の釈義ではなく、指南的なものである。今思うと、コレを日基の教会や長老派、改革派、メソジストあたりで語るのはあり得ないだろうと思う内容の説教である。


「あなたには神の特別な計画が用意されている」、「神の要請に応える」などの見出しを用いた説教が多い。

神に愛されていることと、神に仕えよとのメッセージが、毎週違う内容で、違う聖書箇所から語られていた。


たまに教会のプログラムとしてリック•ウォレンの本に沿った人生の目的勉強会があった。

また、賜物を知って役立てるための勉強会もあった。

しかし全体的に読み書きするプログラムは少なく、過去数年間、聖書を一緒に開いて読む機会はなかった。


ミーちゃんはーちゃん氏は記事の中で、今後ノリノリ若者教会はどうなるんだろう、と言っておられるが、NCの場合は、30年ほど前に若者であった人々が続けてきて、現在いる若者(30代以下)はほんの数人。みな教会員のお子さんたちである。つまり「若者の教会 その後」の一例かと思う。


◇昔は若者ばかりだったNCが持つ未来への目標


単純に比較はできないのだが、私は通っていてぼんやりと先の見えなさ、積み重ねの厚みのなさを感じていた。何かが違う、と思っていた。


20年も籍(?)を置いていながら、私が行き詰まりを自覚するきっかけとなったのは、牧師が言った「(アメリカの母教会の牧師は)ハーレーダヴィッドソンに乗っていて、かっこいい」という一言だった。


牧師が崇敬の口調でこう言うのを聞いたとき、何かがガタンと音を立てて落ちた気がした。


世代交代が近付く中で、将来のビジョンが語られ始めたときだったので、ショックもひとしおだった。

そのビジョンとは、何百人もの「観衆」が入れる教会堂建設というものだった。

総合施設のスタジアムみたいな教会が人の集まるコミュニティとして機能するという、アメリカのモデルを想定しているようだった。

何か思いいれがあるのか、「アメリカの教会は堅苦しくなくてコーヒーマシーンが置いてある」、「自動販売機も教会の中にある」といった話も繰り返し説教の中に出てきた。


バンドの次は、ハーレーダヴィッドソン乗りか。

それで、中核にいる人たちが何を求めているのか、輪郭が掴めた気がした。


私はこれまで「違和感があっても合わさねば、愛さなければ」と自分の感情を無視し続けてきたのだ、と痛切に感じた。


◇昔は若者だった人たちの特徴


中核にいてNCを立ち上げ、礼拝を守ってきた人たちは、学生運動が終結してから大学生になった世代である。

役員は男性に限定されており、牧師を含め男性たちは、アメリカに対する憧れを強く持ち、バンドはカッコいい!と考えており、ワーシップの中で「オーyeah, Lord!」、「エイメン!」と声を張り上げる。

時間もお金も労力もバンドの音響や設備にかなり使っていて、こだわりがある。

このあたりの「熱さ」は、NCの現在の若者とは温度差があるし、今現在若者で溢れている教会とも感覚が違うだろう。


今60歳に達しないこの男性たちは、問答無用でアメリカを世界一だと思ってきた人たちである。

そして彼らの息子や娘たちとは違い、働けば報われる経済的一億総中流の実現を経験してきた。今の20代より趣味にかけるお金がある。

そして家事や育児も専業主婦に任せっきりで趣味に打ち込める。趣味は男性の特権となっている。


◇彼らが希求するものを考えてみた


彼らは今、教会員が一丸となって取り組める目標が欲しいのだろう。

しかし時代は彼らの経験した高度経済成長期とは違う。

ノンポリがこの教会の特徴で、社会問題にはノータッチを貫いているから、現実の社会的状況は問題外なのかもしれない。


私が今振り返ると、NCは結局、アメリカに追いつき追い越せと走るなかで得た、物質的豊かさの象徴の獲得の近辺を今もなお漂っているのだと思う。


一生懸命、どんな風に認識しているんだろうと私なりに想像してみた。


彼ら(男性に限る)は趣味(=好み)を接着剤にしてクリスチャンの人間関係を作り、その中で互いに学んだりしていたんだろう。つまり、趣味が合うかどうかが、集団としての区切り方なのだ。


その共通項である趣味(=好み)は、礼拝だけでなくライフスタイル(物質的消費も含め)をたぶん志向している。彼らが求めるのは、「アメリカンスタイル」の実現なのだと思う。実際にはアメリカと言えども広大で、大雑把に言っても東と西では大分違う。彼らの中にはアメリカに長期滞在した人はいない。しかしバンド、音響機器、コーヒー、くだけた雰囲気、ハーレーダヴィッドソンが象徴する何がしかのアメリカらしさの実現を、彼らは求めている。


だからと言って、キリスト教をその実現の手段に矮小しているわけではない。

彼らはたぶん、「アメリカ風」とキリスト教を切り離せないものとして認識している。

逆に言えば、アメリカ風でないキリスト教とはどんなものか、聞かれても困ってしまうだろう。


本や映画などでヨーロッパのキリスト教を知ることもできるが、彼らはキリスト教書の大半は危険だと言って遠ざけており、読むのは系列教会からのお墨付きの本だけである。観るのはもっぱらアメリカ映画で、国内ではもちろん、教派の違う教会との交流は無い。


そんなわけで、ほかのノリノリ教会にも当てはまるか分からないが、人口の少ないクリスチャンの中で、集団の区切りの根底に「アメリカのくだけた教会」志向があったのだな、と知った次第。

この「アメリカのくだけた教会」が日本の少子高齢化にどう対応してゆくのか、それは分からない。

「クリスチャンの○○」が好まれる理由を考えてみた その2

「ワレワレの知恵」対「この世の知恵」という対立を、「クリスチャンの○○」対「ノンクリスチャンの○○」という表現に置き換えてみると、

「クリスチャンの○○」>「ノンクリスチャンの○○」という優先度の差が見えてくる。

というわけで、その理由を考えてみた。

前回はその一つ目の理由として、「クリスチャン」=「霊的に正しく教育的」という指標 として機能しているのではないだろうかと考えてみた。

 

今日はその二つ目。

いつものように、自分の個人的な例から考えをズラズラ並べていく、毒舌な文章である。

 

② 「クリスチャンの○○」のほうが優れている: 中身を無視してクリスチャンという肩書きで評価する

 

これは、①の論法と併せて考えると、なんとなく理由が想像できる。

クリスチャンは神と共におり、そうでない人と比べ霊的に一段上なのだ、その一段上の人がすることは、何をするにしても一段上なのだ、クリスチャンの絵画のほうがノンクリスチャンの絵画よりも霊的に正しく教育的なだけではなく、その人は神とともに歩んでいるため、その人の能力はノンクリスチャンよりも霊的で優れているのだ、ゆえにクリスチャンの○○のほうがノンクリスチャンの○○より優れているのだ、という理屈で進む人は結構いるんじゃないだろうか。

 

でもこの場合、途中で主語が入れ替わっているんだよな。

神を知っている人→神のゆえに優れた能力のある人 に替わっている。

そして神に与えられた才能を使って○○を行っている、ということになっている。

地味なことに関しては、あまりこういう「神からの賜物を発揮」とか言う話は聞かない。どちらかというと、芸術やスポーツなど、一般的に「才能」が問われ、目にみえやすい分野で、こういう話になりやすい。

つまり一種の、クリスチャンなら成功する・繁栄するという言説なのだと思う。

 

…ではクリスチャンの絵画は常に正しい霊感に満たされ、優れた作品となっており、観る者に霊感を与え祝福するのか、というと、

そういう保証はないと思いますよ(キリッ)。

そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるだろう。

 

クリスチャンならばそのしごとに「霊的な作用が現れるはず」という勘違いが起きるのは、

・ クリスチャンという「人種」の行動や経験を通じて、神の作用が何らかの形で現れ、可視化すると思われている。それゆえ観察が可能なものについては、「神のはたらきが見えるんじゃないか」と期待されてしまう(期待する主体はクリスチャンであることがほとんどである。つまり自分の期待の成就を他人に願っている。これが信仰という名でよばれる)。

・ 比較対象が「ノンクリスチャン」になっているため、表現力や研鑽の度合いなどを論じる以前に、「クリスチャンだから(何でもいいんだ)」になってしまっている 。

 

この二点によって勘違いされているのだろう。

 

さらに、神を知っていれば素晴らしい能力や才能が与えられて、素晴らしいものがつくれる、という劇的なシナリオ。願えば(一瞬にして才能が)与えられるはずという、極端な思考。 

この場合、「一瞬にして」というのが重要みたいだ。なぜなら、人の努力や積み重ねは評価されないからだ。その人特有の性質とか、長期的視野で見るようなことには、人の努力と肉の思いが混じる可能性が高いし、神の介在が見えづらいがゆえに、評価されない。

 

しかし「一瞬にして」才能や能力が与えられ、燃えるように私はキャンバスに向かったのです、みたいなドラマチックで奇跡の匂いの強い話だと、霊的!すばらしい!ということで、そうして出来上がった作品は素晴らしい、神様の働きだ、という話になるのであった。

 

しごとに限らず、クリスチャンになった経緯や礼拝など、いたるところに、ドラマチック至上主義、軌跡や感動の可視化バンザイみたいなノリがある。

この根底には一部、アメリカ式の知性への反発と似たものがあるように思う。根本的に人の能力は平等で、平信徒も洗礼を受けたら即伝道要員!語って教えるのなんて誰にでもできる!学歴なんて敵だ!みたいな空気は、私が前に通ってた教会も普通にあった。私もエリート主義は嫌いだが、根本的に人がみな能力的に平等という前提に固執し、神学を否定しつつも学歴を権威のよりどころとするアメリカの反知性主義は、特殊な時代の特殊な場所の事例だし、ひんまがっていると思う。「普遍」のモデルとしては不適切。しかし戦後の福音派聖霊派はモロ、この志向に影響されているのだろうなあ。 

それでもアメリカの場合、能力は評価されるだろうからまだいい。日本など下手をすると出る杭は打たれるので、反知性的傾向と、出る杭を打つ傾向が重なった場合、本当に悲惨である。

 

誤解されないよう言っておくが、私は学歴偏重もエリート主義も幼児英才教育も人種主義も嫌いだ。しかし、神様が造られた人間は、統一仕様の大量生産品ではない。人それぞれ個性がある。異なる経験を経て、ほかの人には分からないような悩みや苦しみをもち、それらからの解放を経験することもあるだろう。

大量生産志向のクリスチャンたちは人を機械のように思うらしく、「クリスチャンになった→神の働きを人に顕した(神々しい光景)→人が救われる」という図式を想定している。神々しい光景とは、見えやすく、分かりやすいセッティングで、感動やドラマをともなうというものである。分かりにくく思索的であってはいけない。なぜならそれは大衆ウケしないからである(牧師夫妻から本当にそういわれたことがある)。どうも、分かりやすいことが「善」で、分かりづらいことが「悪」みたいに誤解されていると思う。それって、「俺にわかるようにしろ、でないと認めない」みたいな話だよね?つまり「俺様が理解できることが重要」であり、理解できない俺様は悪くない、ということだな。

 

私は、分かりづらいものの中にも、善いものがあると思う。それらを否定して、クリスチャンの○○だから価値がある、ノンクリスチャンの○○には価値がない、と言う人は、実のところ、いったい何を見ているんだろう。何をそこから学び、受け取り、栄養にしているんだろう。その絵との対話や思索があるのか?

 

大学での研究も、木工職人も、介護も、経営者も、みな積み重ねの上に今がある。

研究とか経営とか言ったとたんに「高慢の罪」とか言い出す人も教会にはいる(世の中でもいる)。

しかしそれって、結局人を肩書きで見てるんだよね。その人が何を見てきて、何を経験し、どうやって今に至るかを知ろうとはしていないんだよね。

人には積み重ねというものがあり、それは貴重だと私は思う。

そういうものをすっとばして、人は皆平等であるがゆえに積み重ねや専門性に価値はない、価値は唯一「神を信じるクリスチャンであること」のみにある、という論理は、ほんとうによく耳にする。

 

だから人を知る努力をせず、ただ「神を信じろ」と不特定多数の人に伝道することだけが良しとされるんだろうな。

私はそれを、とても貧しい態度だと思う。

神様は頭ごなしに「信じろ」と強制する方ではない。

イエス・キリストは神であられるのに人間としてこの地に来て、人間が経験する最悪とは何かを、身をもって体験されている。その方が人の友となられた。それは頭ごなしの顔の見えない関係ではない。イエスなら何とおっしゃるだろうか。